チャロー・デリー

 六、チャロー・デリー
   
 ドイツ脱出・インド洋上の邂逅
 一九四三年四月二十六日、チャンドラ・ボースとドイツからただ一人同行した副官のアビド・ハッサンを乗せたドイツ潜水艦UボートU一八○号は、日本海軍の潜水艦イ二十六号との会合地点であるアフリカ大陸に近いマダガスカル島沖のインド洋に到着した。付近の海上はイギリスの制海権下にあったので、会合地点到着後たった一度だけ無線連絡することに日独海軍の間で決められていた。U一八○号が弱い電波で送信すると、イ二十六号からただちに応答があった。イ二十六号も太平洋とインド洋を横切り、正確に会合地点に到着していた。方位を知らせ合い、二十七日夜、両艦は近づいたが、インド洋は荒れ接舷は不可能だった。 
 波の静まるのを待つ潜水隊指令の寺岡大佐はボースの移乗はできないのではないかと不安にかられていた。その時Uボートから先任将校と信号兵の二人が激浪に身を踊らせ、必死にイ二十六号に向って泳ぎ出した。通信方法の異なる両国の発光信号や手旗信号では意志の疎通が十分に行かないため、決死的行動に出たのだった。Uボートからは、ドイツに帰還するにはあと一日で出発しなければならないだけの燃料しかないことが伝えられ、波が少しでも静まったら両艦の間にロープを渡し、このロープを伝いにゴムボートでボースたちを移乗させることを提案してきた。
 ゴムボートの軸先にじっと座るボースが前方のイ二十六号を見つめていると、副官のハッサンが「フカー!」と叫んだ。灰色にあれる波の間にフカが三角の背ビレを見せて泳ぎ、時折白い腹を見せるように飛び跳ねた。さすがに豪胆なボースもこの時は肝を冷やした。ゴムボートがやっとイ二十六号の舷側にたどり着き、待ち構えていた水兵が手を差し伸べると、数時間も狭いボートの中で同じ姿勢をとり続けたボースは思わずよろめいた。潜水隊司令の寺岡大佐と艦長の伊豆中佐が両脇からボースを抱き抱え、やっとのことでイ二十六号の甲板に立った。昼間は潜行し夜間は敵の船影を避けるという航海で喜望峰を回る六千海里の旅を終え、インド独立の彼岸達成を目指し戦雲急を告げるアジアにボースが到着したのは、二月八日にキール軍港を出てから七十九日目の一九四三年四月二十八日の朝であった。
 大役を果たしたU一八○号の姿が見えなくなるまでボースは甲板に立っていた。イ二十六号が上陸地の北スマトラのサバン島に着いたのは八日後の五月六日だった。桟橋に光機関長となっていたベルリン大使館の陸軍武官補佐官の山本大佐の姿を認めると、ボースは桟橋をかけおり、山本大佐を抱き締め「私はこの喜びを天地と神に感謝する」と言って大佐の手を強く握りしめた。
 五日後の五月十一日、ボースは山本大佐などと東京へ向った。ペナン、サイゴン、マニラ、台北、そして浜松を経由したが、ボースの日本行きは最高機密であり、ボースは途中では宿舎を一歩も出ず、髭も伸ばしたままで、「松田」という日本名を使用した。その名前はゾロアスター教の善神で光の神MAZDAからとったものだった。
 ボースはイ二十六号を離艦するにあたり将兵に対して感謝の言葉を遺した。
 「この潜水艦の旅は非常に愉快だった。この旅を可能にしてくれた大日本帝国政府に多大な感謝を申し上げたい。潜水艦司令は私と副官に旅の全行程で家庭にあるかと思わせる扱いをしていただいた。ここに司令以下すべての乗員が我々に示してくれた好誼に心からの感謝の念を捧げたい。この艦による航海は私の全生涯にわたり素晴らしい思い出として残るだろう。私はこの航海が勝利と平和への一歩であることを信ずるものである。スバス・チャンドラ・ボース」
 ビハリ・ボース氏との対面
 五月十六日、東京に到着、ボースの宿は帝国ホテルに用意されていた。翌日、参謀本部情報部長の有末精三少将に案内され、ただちに杉山元陸軍参謀総長を訪れたボースは、開口一番、
「日本はアッツ、キスカを占領する兵力があるのに、なぜただちにインドに進攻しないのですか。日本軍の支援を得て私を先頭にインド国民軍がベンガルに進攻、チッタゴンあたりに国民軍の旗を立てさえすれば、かならず全インドは我々に呼応して反乱し、イギリスはインドから出ていかざるを得なくなります」と、思うところを語った。
 有末少将はボースのインド独立にかける意気込みを知らされた思いがした。インド駐在武官の経験もある杉山総長は、インド進攻作戦に以前から積極的だったが、参謀本部作戦課では広いインドの作戦は大兵力が必要と考え実行を躊躇していたから、返事のしように困り、かたわらの有末少将に「なにか適当な答えはないかね」と、少々困惑の体であった。
 しかし、杉山参謀総長は一時間余りの会談で、すっかりボースの人物に魅了され、全面的支援を約束し、激励した。その後、嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外相等とつぎつぎに会談し、協力の約束を得ることができたが、陸軍大臣を兼ねていた肝腎の東条首相にはなかなか合うことができなかった。その理由は、インド独立連盟(IIL)、インド国民軍(INA)が日本からの援助要請はしても、常に日本からの独立性を保とうとしたことと、ボースが国民会議派左派の領袖であり、社会主義的傾向を持っていると聞いていたためだったと言われている。
 東条英機首相との会見を待つボースを慰めるため、ある日、杉山参謀総長はボースと星ケ丘茶寮に昼食をともにした。この席には二十八年前に日本に亡命し、参謀本部のバックアップでインド独立連盟総裁に就任していたラス・ビハリ・ボースも招かれていた。これは二人のボースの関係を見定め、親和を図る意味もあった。が、スバス・チャンドラ・ボースはラス・ビハリ・ボースに対し、常に独立運動の先輩に対する敬意を払い、階段の昇り降りにはビハリ・ボースの手をとり、上着をかけるような気配りをし、ビハリ・ボースは乾杯の音頭はかならずチャンドラ・ボースに譲り、本国の独立運動の指導者に対する尊敬の念を表していた。この光景を目のあたりにした時の言い知れぬ安心感と感激を列席した有末少将は今もって記憶している。
 日本、独立支援を確約
 六月十日、東条首相との会見が実現した。東条首相はボースに会うとたちまちその人物に魅せられ、「さすがに英雄だね、頼もしい人物だ。インド国民軍を指揮する資格は十分にある」と感想を述べている。ボースにはさわやかな弁舌、高度な知識の他に、風采、容貌、表情に独自の魔力にも似た人を惹きつける空気を持っており、たいていの人間を初対面で魅了することができた。それは若くしてガンジー、ネルーと並ぶ会議派の巨頭となり、大衆政治家として衆望を集めた大きな要素であった。四日後、第二回目の会談が行なわれ、率直な話し合いとなり、ボースが「日本は我々の独立にヒモのつかない援助をしてくれますか」とずばりたずねると、東条首相は快諾し、そしてボースが傍聴した帝国議会の演説で「我々は日本がインドの独立を援助するために、可能な限りをつくすよう、ここにかたく決意するものであります」と明確な約束をした。
 それまで秘密にされていたボースの日本滞在が六月二十日の新聞ではじめて公表され、大東亜共栄圏のために戦っていると考えていた日本の国民各層にある種のセンセーションで迎えられた。この時、新聞に掲載された日本国民に対する声明で、ボースは次のように語っている。
「日本こそは十九世紀にアジアを襲った侵略の潮流を食い止めようとした東亜で最初の強国であった。一九○五年のロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点であり、それはインドの大衆に熱狂的に迎えられたのであった。アジアの復興にとって過去において必要であったように現在も強力な日本が必要である。――インド人大衆は独立運動の理論闘争には何らの関心を示さず、ただ一筋にインドの政治的・経済的解放を熱望しているのであるから、当然インドの独立を支援してくれる勢力はすべてインドの友である」
 さらに六月二十一日、ボースは東京から祖国インドに向けた最初の放送を行ない、次のように呼びかけている。
「インド人たちよ、私はいま東京に在る。大戦が勃発したとき、会議派のある者は、圧力と妥協によってイギリスから自治と独立への譲歩が引き出せると考えた。しかしイギリス帝国主義は微動もしていない。イギリスが自発的に植民地を放棄すると期待することこそ真夏の夜の夢にすぎない。一九四一年から四二年に行なわれたような引き伸ばし交渉は、独立闘争を横道にそらせ、インド人の独立意識を低めるために計画されただけだ。われわれの独立に妥協は許されない。真に自由を欲するものは、自らの血をもって戦い取らねばならぬ」
 インド独立連盟総裁・インド国民軍最高司令官に就任
 約二カ月の東京滞在は大きな成果をおさめ、七月二日、チャンドラ・ボースはビハリ・ボースを伴い、日本占領下のシンガポールに姿を現した。空港にはインド独立連盟やインド国民軍の首脳陣ほか大勢の在住インド人が出迎え、熱狂的歓迎をくりひろげた。白い背広姿で飛行機から降り立ったボースはインドの少女から花輪を首に飾られ、国民軍将兵を閲兵した。
 二日後の七月四日、インド独立連盟の大会が挙行され、総裁のビハリ・ボースがチャンドラ・ボースを新総裁に推挙すると、それは満場の拍手で承認された。新総裁として演壇に立ったチャンドラ・ボースは自由インド仮政府樹立計画を発表――インド国民軍の最高指揮官として会場を埋めつくしたインド人に向い、「我々の前途には冷酷な戦闘が待っている。自由を手にするための最後の前進において、諸君は危険と飢渇と苦しい強行軍と、そして死に直面しなければならない。この試練を乗り越えたときのみ、自由が得られるであろう」と訴えると、熱狂したインド人聴衆は「自由インド万歳、ネタジ万歳」の声を上げ続けた。この時以来、チャンドラ・ボースはヒンドゥー語で「統領」あるいは「指導者」という意味の尊称である「ネタジ」と呼ばれるようになるのである。翌五日、マニラから飛来した東条首相とのインド国民軍の分列行進を閲兵し、ボースは将兵たちに次のように呼びかけている。
「兵士諸君!これからのわれわれの合い言葉は『チャロー・デリー』(デリーヘ進軍)としよう。われわれのうち果たして何人が生き残って自由の太陽を仰げるか、私は知らない、しかし私は知っている。われわれが最後の勝利を得ること、そしてわれわれの任務は、生き残った英雄たちがデリーのレッド・フォートで勝利の行進をするまで終らないことを」
 インド国民軍の再建
 七月九日、シンガポールの中央公園で開かれた大衆集会には、マレー、シンガポール在住のほとんどのインド人六万人が集まり、開始早々のスコールにもかかわらず、最後まで誰一人として帰ろうとするものはいなかった。ボースは東南アジアすべてのインド人の力を結集することを訴え、インド独立のためには三十万人の兵士と三千万ドルの資金を求めた。集会が終わったとき、ボースの前のテーブルには、聴衆の差し出した紙幣や、婦人たちが身につけていた宝石や貴金属が山のように積まれていた。
 この集会で、ボースが女牲も独立の戦いに参加できるよう婦人部隊編成計画を述べると、若い女性たちがその場で続々と志願した。この部隊は、一八五七年のセポイの反乱の指導者でジャンシー王国王妃のラクシュミ・バイイーにちなみ、ジャンシー連隊と命名され、隊長には偶然にも王妃と同名の独身の女医ラクシュミ・ソワミナサンが選ばれた。女性部隊は日本軍には想像もできなかったが、ボースは「女性まで独立戦争に銃を執って立つというインド人の決意を示すために必要なのだ」と言い、この女性部隊に後方勤務だけでなく、戦闘訓練も実施した。
 このように、インド独立連盟の総裁に就任し、インド国民軍の最高司令官となったボースは四二年末のモハン・シン事件で混乱し、士気の低下していた国民軍の再編成に心を砕いた。ボースは国民軍を単なる部隊ではなく、インド独立軍の中核組織として提え、幹部には時間をかけてその分担と責任を徹底させた。ボース自身は最高司令官ではあったが、軍隊内の階級は持たなかった。かつて英印軍内で階級の下だったものが上級者の上に立つことが、国民軍内で無用の軋轢の原因となっていたためであった。一九四三年八月、インド国民軍の新たな陣容が整った。
  参謀長   J・K・ボンスレー大佐
  作戦部長 シャヌワーズ・カーン中佐 作戦・計画・情報・訓練
  総務部長 N・S・バガット中佐 管理行政・一般命令示達
  後方部長 K・P・シッマヤ中佐 補給・整備
  教宜部長 ジャハンジール中佐 教育・宣伝
  医務部長 A・D・ロガナダン中佐
 ボースはインド国民軍の急速な拡大・整備を望んでいた。国際情勢を得るために睡眠時間を切り詰めても海外の短波放送を聴き、情報の把握と分析に努め、周囲の者が、ネタジはいつ眠るのだろうと思うほどであった。
 当時の情勢について、ボースは
「自分はここにくるのが一年以上も遅れてしまった。その間に日独伊枢軸の優勢も崩れ、英米は日に日に体制を建てなおしつつある。そうなれば長い植民地統治で事大主義に染まっているインド人はイギリスと妥協しようとする傾向が強まるのは必死だ。急がなければならない」と述べている。
 独立国家・対等の同盟軍
 七月二十九日、ラングーンに飛んだボースは、ビルマ方面軍の河辺正三司令官と面談し、
「ただちに海岸沿いに、あるいは海路チッタゴン、カルカッタヘ進攻すべきです。その際はインド国民軍を先頭に立てていただきたい。われわれの旗が独立革命の聖地ベンガルに翻りさえすれば、インド民衆はこの旗のもとに集まり、全土に反乱の火が燃えひろがり大混乱に陥るでしょう。そうなればイギリス軍も必ず逃げだします」と、インド進攻を熱心に説いている。
 河辺司令官には、ボースの即時インド進攻論は無謀とも思えたが、ボースには確固たる考えがあった。方面軍作戦課長の片倉大佐に対し、ボースは戦略的見通しについて、次のような内容を述べた。
「この戦争を契機にインドの民衆が武装闘争・反乱に踏み切らなくてはインド独立は達成できないことをガンジーに説いたが、ガンジーは反対したため自分は国外に脱出し、援助をドイツや日本に仰いだ。したがって反英独立闘争のためには、イデオロギーに関係なくどの国とも手を組むつもりであること。またインド国民に対する大きな宣伝効果と革命の進撃を促すため、インド国民軍を日本軍に組み入れるのではなく、独自の作戦正面を担当させてほしいこと。そしてこの戦争が長期戦になると思われるので、インド国民軍を拡大し、精強な軍隊にしなければならないこと。同時に国際情勢が枢軸国に不利であるため、インド民衆が連合国側に引きずられ、イギリスとの妥協を防ぐためにも、できるだけ早期にインド進攻を実行すること、そのためにはインド国民軍がインド国内に進撃して独立旗を立て、臨時政府を樹立し、独立運動の急進派を引き込むこと。そしてこの臨時政府を日本が支援すればその勢力はますます拡大する」
 ボースはインド国民軍を日本の補助部隊ではなく、独立した日本の同盟軍としてできるかぎり対等の立場を堅持することに努めた。インド国民軍の再編成が終わった八月に、ボースは日本の南方総軍司令部に軍司令官寺内元師を訪ね、元師から「戦闘は日本軍に任せていただきたい。インドがイギリスの支配から解放されれば、その時独立した領土としてあなたがたに進呈しよう」と言われたボースは「いや、われわれは先頭を努めたいのです。インドの大地に最初に流す血はインド人の血でなければなりません」と決意のほどを述べている。
 インド国民軍が傀儡軍ではなく同盟軍の立場を確保するために、ボースはどうしても譲らなかった問題がある。それは敬礼の問題である。日本軍の中にはあまりにも形式にこだわりすぎるという声もあったが、ボースは「英印軍でも、イギリス兵はインド上級者に対して敬礼します。われわれはこれを勝ちとるために血さえ流したのです」と粘り、ついに認めさせたのである。
 自由インド仮政府
 インド国民軍が独立した国家の軍隊であるためには仮政府樹立が急がれた。東条首相もすでに七月の閲兵の際に原則的同意をしていたが、ついに一九四三年十月二十一日、シンガポールに自由インド仮政府が正式に設立された。東南アジア全域から集まったインド人同胞を前に、ボースは独立宣言を読み上げた。仮政府は日本、ドイツ、イタリア、満州国、フィリピン、タイ、ビルマなどから承認され、二十四日、自由インド仮政府はイギリスとアメリカに対する宣戦布告を発表、ボースが「私は諸君にこの宣戦布告を承認していただきたい。もし諸君がこの世にもっているすべてを投げうち、生命を捧げる用意があるなら、どうか起立してほしい」と叫ぶと、聴衆はこぞって立ち上がり、銃を捧げ、熱狂した「ネタジ万歳! チャロー・デリー!」の歓声が響きわたった。発足当時の自由インド仮政府は次のような内閣を組織し、ボースは国家首席であると同時に首相と国防相と外相を兼ねていた。
  大蔵大臣 A・C・チャタージ中佐
  宣伝相  S・A・アイヤー
  無任所相 A・M・サハイ
  最高顧問 ラス・ビハリ・ボース
  法律顧問 A・N・シルカル
 大東亜会議
 東京で十一月五日から開かれた大東亜会議に、ボースはオブザーバーとして出席した。出席者は日本の東条首相、中国(南京政府)行政院長汪兆銘、満州国総理張景恵、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのワンワイタヤコン殿下等であった。ボースがオブザーバーという位置を選んだのは、インドを大東共栄圏には含めないと彼の意見が日本政府の見解と一致したからであった。ボースの人物は出席した国々の人物をまったく圧倒しており、それは二日目にビルマのバ・モウ首相がインドに関する動議を提出し、満場一致で「自由獲得のためのインドの闘争に、同情と全面的支援を与える」という決議を採択したのに応え三十分の演説で最高潮に達した。
 ボースはまず「この決議ははるかに議事堂の壁を越えて、イギリスの圧迫下に苦しむわが幾億同胞に希望と感銘をもたらす」と演説をはじめ、最後に次のように述べている。
「インドに関するかぎり、われわれの運命は日本およびその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や行き残って自由インドを見られるかは問題ではない。ただ一つの関心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドがら駆逐されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章をなることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを」
 この演説のあと、東条首相はインド独立の第一段階として、日本軍が占領中のインド領アンダマン・ニコバル諸島を自由インド仮政府に帰属させるという重要な発言を行なった。面積八一○○平方キロ、人口三万三○○○ではあったが、ここに自由インド仮政府は自身の領土を持つ独立国家の形を整えたのである。
 IIL総裁就任演説 一九四三年六月四日、シンガポール
 しかし今や非暴力、不服従による運動は次の段階に移るべき時期が到来している。イギリス帝国主義に対し、武装して立ち上がることこそ新しい組織の目標であり、目的である。これを実現するためすべてのエネルギーと武力を動員可能にするため、私は自由インド仮政府を組織する計画である。われわれの革命が成就し、アメリカ・イギリス帝国主義者がインドから駆逐されれば、インド仮政府はその使命を終え、インド国内にインド国民の意志により恒久的政府が樹立され、そこで仮政府は新しい政府に政権を譲るであろう。
 征け征けデリーヘ 岩原唯夫
  一、征け征けデリーヘ、母の大地へ
    いざや征かんいざ、祖国目差して
    征け征けデリーヘ、母の大地へ
    いざや征かんいざ、祖国目差して
    進軍の歌ぞ高鳴る
    我等の勇士よ旗あげて
    見よ翻るよ独立の旗
  二、征け征けデリーよ、母の大地へ
    いざや征かんいざ、祖国目差して
    征け征けデリーよ、母の大地へ
    いざや征かんいざ、祖国目差して
    聞かずやあの声自由の叫び
    屍踏み越え征けよ強者
    赤き血潮もてわが旗染めん
    征け征けデリーヘ、母の大地へ
    いざや征かんいざ、祖国目差して
  INAの進軍歌 藤井千賀郎
    Kadam kadam barhae ja
kadam kadam barhae ja
khushi ke git gae ja
ye zindagi hai kaum ki
tu kaum pe lutae ja
tu sher Hind age barh
marne se kabhi na dar
falak talak uthake sar
joshe vata n barhae ja
himmat teri barhti rahe
khuda teri sunta rahe
jo samne tere are
tu khak men milae ja
chalo Dilli pukar ke
kaumi nishan samhal ke
Lal kite pe gar ke
lahrae ja lahrae ja

 自由インド仮政府制定国歌 National Anthem (PATRIOTIC SONG)  岩原唯夫
1. Subh SukhChain ki barkha barse; Bharat bhag hai jaga
Punjab, Sind, Gujrat, Maratha; Dravid, Utkal, Banga
Chanchal Sagar Vindh Himala; Nila Jamuna Ganga
Tere nit gun gayen; tujh se jiwan paen;
Sab tan paye asha
Suraj ban kar jag par chamke; Bharat naam subhaga
Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho; Jaya, Jaya, Jaya, Jaya Ho,
Bharat naam subhaga
2. Sab ke dil men prit basae; teri mithi bani
Har sube ke rahne wale; har mazhab ke prani
Sab bhed our farak mita ke; sab god men teri ake,
Goondhe prem ki mala
Suraj ban kar jag par chamke; Bharat naam subhaga
Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho, Jaya, Jaya, Jaya, Jaya ho,
Bharat naam subhaga
3. Subh savere pankh pakharu;tere hi gun gayen
Bas bhari bharpur hawaen; jiwan men rut layen
Sab mil kar Hind pukaren; Jai Azad Hind ke nare piara desh
hamara
Suraj bankar jag par chamke; Bharat naam subhaga
Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho, Jaya, Jaya, Jaya, Jaya Ho,
Bharat naam subhaga
Jai Hind
 一九四四年の春、インパール作戦の成功を予想して編成されたビルマ派遣の大本営特別班に加わった作曲家の古関裕而氏は、ビルマのINAを見学した。この時INAの兵士たちが歌っていた歌を自ら採譜し、日本語の歌詞をつけたものが「征け征けデリーヘ」として日本に紹介された。力強い中に民族独立の悲願がこめられ、日本の軍歌とは異なった雰囲気が伝わってくる。曲は、東京12チャンネルの人気番組「あ丶戦友あ丶軍歌」で復元された。
 自由インド仮政府首席就任演説 一九四三年十月二十一日
 私は神の御名にかけて、インドとその三億八千万国民を解放することを誓う。私は死の瞬間までこの誓約を守るであろう。私はインド国民の自由のためにはあらゆる努力を傾けるであろう。さらに私はインド解放の後にもインドのためにこの一身を棒げることを誓約する。
 対米英宜戦布告 一九四三年十月二十四日、シンガポールから放送
 イギリスはアメリカに助けられている。チャーチルはルーズベルトの前にひれ伏し、援助を願っているのに、インドが他の国から援助を受けられないということはないのである。
 大東亜会議のボースについての報道 一九四三年十一月五日、東京
 我がチャンドラ・ボースの存在はこの会議を通じて大東亜地域に大きな光輝となった。彼自身にとっても、この一日こそ、その東亜における二年有余の活躍期間における最も栄あるひと時となった。後世の史家が大東亜会議そのものの歴史的価値をいかに批判しようとも、この日全インドの運命を双肩に担って立ったチャンドラ・ボースの確固たる雄姿は、決してその史眼から拭い去られることはないであろう。
 参加者:バー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪精衛(中国南京政府)、ワンワイタヤコン(タイ)、ホセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)
 汪精衛・中国南京政府のチャンドラ・ボース
 私はこの程、大東亜会議において自由インド仮政府主席S・C・ボース氏に会う幸運に恵まれた。彼は会議の間は沈黙を守っていたが、最後にその所信を披瀝した。堂々たる体躯と魁偉な容貌、精力に溢れ、感動的で知力に満ちた講演者だった。彼は十一回投獄され、断食を七回行った。これらのことが自由の戦士として彼を鍛え上げている。イギリス、ドイツで教育を受けた実に聡明な人物である。


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