スバス・チャンドラ・ボース先生 有末精三

 スバス・チャンドラ・ボース先生
元陸軍中将 有末精三
 私が日本陸軍大本営第二部長として着任したのは、一九四二年七月であった。その頃の戦勢ではドイツ軍と日本軍が、印度洋で握手しようというような意気込みで、したがってインド革命解放の志土スバス・チャンドラ・ボース氏を、是非東亜に迎えたい希望が切実であった。同氏は当時ドイツにおられた。私は一九四三年二月シンガポールに行き、ラス・ビハリー・ボース先生(インド独立の志士で日本に亡命後もこの運動に生涯を棒げられた)に逢い、是非とも、スバス・チャンドラ・ボース先生を迎えたいというインド人全部と、さらに日本軍関係者(光機関)の希望をまとめて帰京した。その後ドイツ側や海軍側とも交渉してようやくそれが実現、同年初夏の候、はるばるドイツの潜水艦でアフリカ沖を回って、インド洋で日本の潜水艦に乗り移って東京にこられた。
 その時私は初めて先生の謦咳に接した。その上品な温容、そして烈烈たる気塊、初対面ですっかりその人格に敬服してしまった。当時の参謀総長杉山元師や首相東条大将等も、たしかに先生に逢われてからの感想は、私のそれと似かよったものが多かったとうけたまわりました。
 その時に私の印象に残っていることが二つある。
 第一に、この日の戦争の勝敗についての感想を聞いた。もちろん日本側が勝つとの判断であったが、その理由は日本に人が多いということ、つまりマンパワー、人の質と量に非常な期待をかけておられたことである。その説明に「人」が総てを決定する要素であり、さすが革命、民族独立運動に一生を棒げておられる先生の信念の程を察して、言い知れぬ感激に打たれた。
 第二は、その折、ラス・ビハリ・ボース氏と杉山元師、田辺参謀次長と私の五人が星ケ丘茶寮での会食の時の印象である。
 もともとラス・ビハリ・ボース先生は相当の年長者であり、ことに日本におけるインド独立運動の先覚者であり、そのうえこの度の光機関関係のインド側の代表者でもあった。その上にスバス・チャンドラ・ボース先生を迎えるので、我々関係者の間に、このお二人の間がいかがかと密かに心配していたのだった。したがって、この会席の席次等も十分留意して、円卓にしつらえた程であった。しかるにお二人ともよく打ち解けて、お互いに肩のこらない相互の尊敬で、いかにも和やかに、しかも紳士的なよい会食で終わった。
 終ってから立ち上がるとき、スバス・チャンドラ・ボース先生はビハリ・ボース先生の手をとって立ち上がらせ、その上きわめて自然にその外套を着せて上げられた。この光景を見て、私は本当に同志として大望を抱き、共に闘われる御兄弟のように感じ、その好い印象は今もってわすれることができない。
 思えば一九四五年夏、スバス・チャンドラ・ボース先生は、雄図半ばにして台湾上空での飛行機事散で亡くなられた。しかもその時はインド独立どころか、友邦日本が敗戦の憂き目に呻吟しておったので、さぞや無念にこの世を去られたことであったろう。あれから十五年、その間に祖国インドは独立を勝ち得、友邦日本も漸次復興の途を辿っている。先生の霊もいささが慰められるのではないかと思われる。(一九六〇年五月七日スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行『ネタジ』より)


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