ラビンドラナート タゴールとは


 150年前に独立前の英領インドのコルカタ(カルカッタ)で裕福な家庭に生まれたタゴールとは一体どのような人だったのでしょうか? ガンディーが細い体に綿布をまとい杖をつく貧者のいでたちでインドの民衆を鼓舞したのに対し、長身、長い巻髪、長い三方髭、長いガウン姿で聖者か預言者の様ないでたちで世界中の人を惹き付けたタゴール。

 8歳前後より始め、生涯続けられた詩作の他、小説・戯曲・歌曲・絵画にも作品を残し、教育家、社会改革家であり、旅客機も無い時代に、客船で世界中を巡り多くの要人と対話を行った思想家であり、インドの独立前夜をガンジー・ネルー等と苦闘しながら過ごし、その独立を見ることなく1941年に80歳でその生涯を終えました。また、日本には5回来ており、旧交のあった日本美術院の画家をはじめ、教育者、経済人等とも交流し、その流れは途切れることなくインド・シャンティニケタンの国立ビッショ・バロティ大学に今でも受け継がれています。

 タゴールの芸術活動の幅広さ、世界中に残された足跡、ベンガル語と英語で残された著作、報道関係等の資料の多さからその全貌をつかむのは困難と言われていますが、現在出版されている資料を元に極めて簡単ではありますが、まとめてみましたので、皆様のご理解の一助になれば幸甚です。

 【タゴール家】コルカタの名家でありながら差別・不合理に立ち向かう一族の意外な出自

 祖先は東ベンガル(今のバングラデシュ)のヒンドゥーバラモンだったが、イスラム教徒の多い地域に居たためその影響を受けたとして差別された。1700年代にイギリスが西ベンガルのコルカタに植民地経営の拠点を置き始めた頃、そこにタゴールの6代前の先祖が迫害を逃れて、ヒンドゥーのバルナ=カースト制で最も身分の低い漁民の街に移住し、漁民たちからタクル(神)と呼ばれるようになり、それが家名タクル(英語訛りでタゴール)となる。

 英国の植民地拠点、コルカタの発展に参画したタゴール家は祖父ダルカナトの時にその繁栄を極める。彼は経済人でありながら、近代インドの父と言われた社会・宗教改革家ラムモホン・ライの友人としてヒンドゥー改革派宗教団体ブランモ協会の事務局長も務める。当時のタゴール家は、ブランモ協会の拠点であり、英総督が訪問するようなベンガルの社交界の中心であり、屋敷内の劇場で歌曲や戯曲が催される文化の中心でもあった。タゴールの生まれる15年前、1846年に祖父が死去し、父デベンドロナトは残された莫大な借金を返済した後は、宗教活動に専念し、中国、ヒマラヤ、インド各地を瞑想しながら旅をした。

 【誕生】教養としてのペルシャ語、社会的成功を得るための英語、母国語としてのベンガル語が併存する世界

 1857年セポイの反乱が起こり、1858年にはペルシャ語を国語としていたムガール帝国が滅亡し、インドは英国王の直接統治下に入る。そして1861年5月7日、父デベンドロナト44歳、母シャロダ・デビ37歳の第14子として、ラビンドラナート タゴール(ベンガル語ではロビンドロナト・タクゥルに近い発音となる)が誕生する。弟は夭折したため、タゴールが実質的な末子である。他の兄弟同様日常生活の世話を召使に受け育つ。

 【家族】ベンガル・ルネッサンスを担って活躍をする兄弟と、忘れられがちな末っ子グループ

長兄ディジェンドロナトは文学書・哲学書を著し、タゴールにとり、家を空けることの多かった父親に代わる存在だった。次兄ショッテンドロナトはインド人で始めて英国の上級公務員試験に合格し、植民地英国官僚として高位にありながら民族主義者として国産博を開催し、独立気運の醸成に努めるような人であった。また、妻を英国に呼び寄せ近代的女性の有様を学ばせ、帰国後、公の場に同伴する等、女性を屋敷の奥深くに押し留めておくパルダ制度の廃止を唱えた。また、児童文学誌を発刊したり、仏教の研究を行ったり文化的な活動も行った。三兄のヘメンドロナトは、医学を修めながら、幼い兄弟姉妹たちや年若い嫁たちのために、ベンガル語の教育を担当した。

 タゴールがベンガル語に天賦の才を発揮することができたのもこの兄の力に寄るところが大きい。四兄ビレンドロナトと十四兄ショメンドロナトは、精神を病み、それぞれ屋敷の一部屋に幽閉され生涯を過ごしたが、2歳年上のショメンドロナトとタゴールは一緒に育った。次姉ショウダミニ・デビは新しい時代の女性像に共感しながら、伝統的家庭人として大家族を内側から支えて生涯を過ごした。五兄ジョティリンドロナトはタゴール同様、文学、音楽、絵画にその才能を開花させる。次兄が始めたインド音譜を完成させ、自らピアノを弾き、作曲も行った。タゴールの音楽的才能を引き出したのはこの兄と言えよう。

 この五兄の妻、カドンボリ・デビはタゴールが7歳の時に9歳でタゴール家に嫁いできた。義姉でありながら、遊び友達であり、少し成長してからは淡い憧れの対象であり、彼女に励まされ、タゴールはその才能を伸ばして行った。タゴールが22歳の時、11歳のムリナリニ・デビと結婚。翌年カドンボリ・デビが自ら命を絶ち、タゴールに大きな衝撃を与える。五姉ショルノクマリ・デビはベンガル文学の歴史上初めての本格的な女流作家と言われており、女性の地位向上運動にも積極的に参画した。

 【学業】学校をドロップアウト、田園を逍遥する少年時代。ロンドン大学で学位取得できずに帰国

 日本が明治維新を向かえた1868年、7歳で最初の学校に入学する。学校の授業をはさんで早朝と下校後に家庭教師に教わる詰め込み方式の生活になじめず、終に4番目の学校を14歳で退学、以後家庭での学習に切り替え、17歳で弁護士になるための英国留学のため、アーメダバードの次兄とムンバイの英国帰りの子女から英語を学んだ後、次兄とともに英国ブライトンに移り住む。次兄の妻と子供がその後合流。翌年、University College Londonで法律を学び始めるも、またもや、学舎を離れ、シェークスピアや欧州の古典を読むことに没頭する。1880年、19歳で学位の無いまま、帰国の途に着く。

 【結婚】東ベンガル(現バングラデシュ)で美しい河と緑の田園に囲まれ家族と過ごした豊穣の時

帰国して3年後の1883年に22歳で結婚。翌年、義姉を亡くし深い悲しみにくれる。1884年、国民会議派の第一回大会がムンバイで開催。25歳で長女、27歳で長男が誕生。29歳から31歳にかけ、東ベンガル(現在のバングラデュ)のシライドホの領地を管理のため度々訪れる。ポッダ河をボートハウスに滞在しながら巡り、村の農民たちの生活や祭り、とりわけ、近代以前のベンガル文学の担い手たち、ヒンドゥーボイシュノブ派の宗教歌謡の歌い手、ベンガルの吟遊詩人バウル達、イスラム教神秘主義者ダルビーシュ等と出会ったことは、その後タゴールが都会の一詩人からベンガルを代表する詩人へ変貌していく豊かな土壌となった。この間、30歳で次女、33歳で三女、35歳で末子となる次男が誕生。

 【シャンティニケタン】困難な学園設立、親しい者との相次ぐ別れ、独立運動の胎動、ノーベル文学賞授与

 1898年、37歳の時、シャンティニケタンで校舎の建設が始まり、翌年家族とシャンティニケタンに引っ越す。1901年、古代の森の学園をモデルに緑豊かな学園を設立するも、財政的に苦しく、プーリの別荘、蔵書の売却を行う。妻も装飾品類を売却し助けるが学校設立依頼の苦労がたたり、1902年11月に死去。その後、1907年までの間に結核で次女を、コレラで次男を、学校設立に尽力した詩人ラエを亡くす。また、日本が日露戦争に勝利した1905年に父デベンドロナトが死去。同年インド総督が独立の気運高まるベンガルを東西2つに分けるベンガル分割令を施行。タゴールはベンガル分割反対運動に参加、彼が書いた愛国歌が集会で歌われるようになる。その内の1つが後にインド国歌となる。

 1910年米国イリノイ大学で農学を修めた長男が幼児婚で寡婦となった女性と結婚。1911年50歳の時、ベンガル分割令が撤回され、翌年のデリー遷都が発表される。1912年東ベンガルとアッサム州政府がシャンティニケタンを好ましくない学校と通達したため、多くの生徒が退学。英国訪問の誘いを受け、ベンガル語の詩集「ギタンジャリ」を自ら英訳した「ギータンジョリ」が、画家ローゼンスタインを介してイエーツをはじめ多くの文学者に紹介される。その後長男夫妻と米国イリノイ州に半年滞在し、翌年英国を経由してシャンティニケトンに戻り、ノーベル文学賞の受賞が知らされる。1914年第一次世界大戦勃発。南アフリカのガンディーのフェニックッス農園の学生をシャンティニケトンに受け入れた縁で、翌年ガンディーの訪問を受ける。

 【海外渡航】日印の新しい美術運動の邂逅、シャンティニケタン大学設立、世界各地への旅と要人との会見

 1916年アメリカより講演旅行に招待され、日本郵船の土佐丸にて神戸に到着。大阪を経由して東京へ移動、東京大学、慶應大学で講演。1902年にコルカタにて岡倉天心と横山大観に会っていた縁で、大観邸に滞在したが、静かな所を求めて横浜の広大な原三溪邸に移り2ヶ月半滞在し、その間、日本美術院の画家たちと交流し、俳句についても学ぶ。また、軽井沢の日本女子大学三泉寮や茨城県五浦の亡き岡倉天心の家も訪問した。タゴールと一緒に来日したムクル・デはその後、コルカタの政府美術学校の校長となり、また、横山大観と下村観山の絵画をタゴールのために模写した荒井寛方は後にインドに招聘された。帰国後、シャンティニケタンにおける異文化交流の構想を固め、美術学科、音楽学科も設立される。1920年から21年にかけ、シャンティニケタンの財政維持のため、欧州各国と米国を講演のため訪れる。学園設立から20年を経て大学が正式に発足し、海外から客員教授を招き、米国青年エルムハーストが責任者となった実践的な農学部、スリニケトンも併殺された。1924年63歳から1932年71歳までの間、東南アジア、中国、日本、南米、欧州、中近東、北米、ロシア、ペルシャ、イラク各地を旅し、ムッソリーニ、ロマン・ローラン、アインシュタイン、パーレビ国王等と会う。日本では、渋沢栄一、亡命中のベンガルの革命家ラース・ベハリ・ボース、水戸民族派・頭山満(玄洋社総帥・頭山満)、大倉邦彦等に会う。

 【晩年】衰えることのないインド独立への希望、シャンティニケタンの未来、バングラデシュ独立

 1930年ロンドン滞在中にガンディーの「塩の行進」や逮捕のニュースを聞き、政府の対応を非難。オックスフォードで後に「人間の宗教」として知られることになる連続講演を行う。1932年から1933年にガンディーが獄中内で断食を行うたび、事態打開に向けて政府に打電。1934年ネルー夫妻の訪問を受ける。(当時娘のインディラがシャンティニケタンで学んでいた)同年、ビハール州で大地震があり多くの犠牲者が出たことに関し、ガンディーがカーストの下層民にグルバユール寺院を開放したことに対する神罰だと発言したため、その開放活動を行ったタゴールは不適切な発言をたしなめる抗議文を発表。1935年コルカタのカーリー寺院での生贄行為を廃止する運動を支持、ヒンドゥー保守派から反発を受ける。

 1936年75歳になってもなお、大学の資金確保のために国内を講演・公演してまわるタゴールに対しガンディーが用意した6万ルピーの寄付(ビルラ財閥が用意した)を受け、ツアーを取りやめる。ネルーの依頼で国民会議の議長を努める。ダッカ大学より名誉学位を受けると同時にベンガル語の綴りを制定するのに協力。1937年シャンティニケタンに中国学院を設立。9月意識を失いコルカタで療養生活を送る。シュバシュチョンドロ・ボースやネルーが見舞う。再びシャンティニケタンに戻り、日本の中国侵攻を批判。1939年シャンティニケタンにヒンディー学院を開設。式典を機にシャンティニケタンを訪れたネルーとシュバシュチョンドロ・ボースの会談を実現させるも、ボシュは国民会議派を離れる。

 1940年病状が悪化、1941年誕生日に「文明の危機」を代読してもらう。治療のため手術を受けるも回復せず、コルカタのジョラシャンコの生家で死去。この年の年末、日本、真珠湾攻撃により開戦。ガンディーに託されたシャンティニケタンは後にインドの首相が学長となる国立大学ビッショ・バラティとなる。また、英領インドから独立した東ベンガルは、母国語ベンガル語を守るため、1971年西パキスタンから分離独立しバングラデシュとなる。バングラデシュの国歌はタゴールの手になる「我が黄金のベンガル」である。

 参考資料:「タゴール 詩・思想・生涯」我妻和男著 麗澤大学出版会 2006年刊
        「タゴール 人と思想」丹羽京子著 清水書院 2011年刊 他



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