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鈴木文治(すずき・ぶんじ、1885−1946) 労働組合友愛会創始者、クリスチャン(Wikipediaより転載) |
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宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる。
10歳の頃に父親とともにキリスト教に入信。
宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。
中学卒業前後に家業が傾き、高校時代苦学するなかで、在野のキリスト教伝道師本間俊平の影響により、社会問題に目覚めていく。
東京帝国大学法科大学政治学科に入学。同郷の先輩である吉野作造とともに、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属する。同教会の自由主義的な空気に感化され、また大学では社会政策学者桑田熊蔵の社会改良主義に共鳴し、社会運動家への志望を固めていった。
1909年 東大卒業後、秀英舎(現大日本印刷)入社。
1910年 東京朝日新聞に入社。貧民問題の取材に取り組む。
1911年 ユニテリアン派の統一基督教弘道会(会長安部磯雄)に幹事として就職。
「労働者講話会」等の社会事業に携わる。
1912年 労働者の地位向上を目指して、14名の賛同者とともに「友愛会」を発足。
1915年 渡米。米国の労働組合事情を学ぶ。
1919年 「大日本労働総同盟友愛会」と改称。体制に対して対決的な姿勢を強める。
1921年 「日本労働総同盟」と改称。1
920年以降 実権を松岡駒吉・西尾末広らに譲る。
ILO総会出席等の国際活動や普選運動に比重を移していった。
1926年 社会民衆党の結成に参加し中央執行委員。
1928年 第1回目の男子普通選挙、16回衆議院議員総選挙に、旧大阪4区から立候補し当選。
日本初の無産政党議員8名の一人となる。
1930年 落選。
1936年 社会大衆党公認で旧東京6区から当選した。
1940年、斎藤隆夫代議士の除名問題で反旗を翻し党を除名。
党首の安部磯雄、西尾末広、片山哲、水谷長三郎も除名。
戦時中は憲兵隊の監視下で、鎌倉市の鎌倉教会長老として奉仕活動を行った。
1946年 3月12日、総選挙に日本社会党から立候補の届出を行ったその翌日に急逝した。享年60。
総同盟会長時代は内部融和を願うあまり、時に優柔不断と評されることもあったが、育ちの良さからくる大らかな人柄で、松岡駒吉、西尾末広、麻生久、賀川豊彦、野坂参三ら多彩な人材をまとめ上げ、日本に労働運動を定着させた功績は大きい。
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