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鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動

茅 誠司
田中正明
尾崎秀樹

尾崎 きょうは下中弥三郎先生についていろいろお話を伺いたいわけですが、何しろ下中弥三郎という人物は、出版人であると同時に教育者であり、思想家であり、政治家でもあるという、その幅の広さは、おそらく明治・大正・昭和三代を生きてきた人物の中でも飛び抜けて傑出していたんじやないかと思います。
 それだけに、下中弥三郎の人と思想を要約して語るのは、たいへん難しいことで、その証拠に『下中弥三郎事典』という事典までができている。いかにも百科事典の平凡社にふさわしい本ですが、しかし一人の人物で百科事典ができ上るということに下中さんのパーソナルなものの幅の広さ、奥行き、行動半径の広がりというようなものが物語られていると思われます。
 本来ならば、八十三年の生涯を戦前からたどっていくのが順序なんでしょうが、時間の都合もございまして、きょうは主として戦後の活躍というところでお話しをいただきたいのです。諸先生、いずれも下中さんとは個人的にもお親しくいらしったし、それだけに活字を通して伝えられるもの以上のいろんな人間的なエピソードだとか印象などをお持ちだろうと思います。そういう点を大いに盛り込んでいただいて世界連邦運動や世界平和アピール七人委員会のそれぞれの動きの中での下中弥三郎との出会いを語っていただきたいのです。それらの運動が今日どのような意義を持っているか、その辺の問題もふれていただければさいわいです。

 下中と世界連邦運動

 
戦後は、しばらく追放の時期もあって、出版界の中心にはいなかった。東京印書館の社長に就任したのが、たしか昭和二十二年だったと思いますが、追放も解けて二十六年社長に復活と同時に、この段階でもう戦後の新しい構想を具体化していこうとする。それが平凡社の復興とダブって、大きな波を打っていくことになるかと思いますがどうでしょうか、やはり運動の中軸になるものは、教育の理念を出版を通して実践していく、そしてその路線に基づいて新しい戦後の文化的復興を図る。これが出版人としての一つの柱になったのではないでしょうか。まず、世界構想というか、その具体的な現われである世界連邦運動についてお話ししていただきたい。私は、これを戦前からの発展として見ているわけですが戦前から非常に親しくお付合いのあった田中さん、いかがでしょうか。

 田中 
戦前からのつながっている構想というのは、私も大賛成でして、人はよく、下中弥三郎という人物は、そのときどきの主役的な演じ方をする、オポチュニストであるとか、時代時代の変わり身の早さを論議しますけれども、先生は死ぬまで一貫したものがあったと私は見ているんです。
 世界連邦創立当時、先生が世界連邦にお入りになると同時に、私も一緒にお手伝いさせていただいた。先生が世界連邦建設同盟の理事長、私が事務局長として長年お仕えしたわけなんですが、一体下中弥三郎の世界連邦思想のルーツはどこかということを調べたことがあるんです。
 先生の著書に、大正十二年『萬人労働の教育』という有名な本がございます。それから統いて、大国隆正、佐藤信淵の研究を著書として出されている。これら三つの著書に共通しているものは、世界経倫というか世界統合の問題である。大国隆正や佐藤信淵は、いうまでもなく、日本を中心にした世界経綸でございますけれども、そういうことに先生は非常に興味と関心を持っておられた。昭和十五年に『大西郷正傅』という著書を書かれている。


 尾崎 
大きな本ですね。

 
田中 浩瀚な著書で、上中下三巻でしたか、この中に実は世界連邦という言葉が出てくるんです。横井小楠、大西郷を結ぶ思想系譜の中に世界連邦思想があるというュニークな発表をしています。
 
さらに、先生の崇拝している人物を挙げていきますと、カント、ガンジー、トルストイ、大西郷、みんな現代的な意味のある人々でありますが、何か共通のものが底にあるわけですね。カントは『永久平和のために』という著書を書いて、世界連邦の初期の思想家であるし、トルストイは精神主義、農本主義を中心にした世界、人類の和合ということを考えた思想家である。ガンジーは、非服従非暴力主義を通じて、世界同胞主義を唱え、人間の良心に絶対的な信頼をおいた人種平等人権尊重という建前から、世界連邦的な構想を展開している。大西郷しかりです…。そういうものを先生は学んだのではないでしょうか。
 戦争で山梨県の岩間村に疎開されるんですが、そこで終戦を迎える。私どもからすれば、価値観の大転換が来たわけですが、岩間村の近郷近在の先生方が方向を失って、これからの日本はどうなるのか、私たちはどう生きていったらいいのかと、先生の疎開先の茅屋へ聞きに来るわけです。そこで先生は三つのことをおっしやっている。一つは郷村自治、一つは人種混合、もう一つは世界連邦、この三つが日本のこれからの柱だ、ということを言われるんですね。ここでもまた世界連邦という言葉が出てくるわけです。


 
尾崎 なるほど一貫しているわけですね。

 
田中 終戦直後は先生の一番痛ましい不幸な時代で、次男の達郎さんがフィリピンで戦死され、長男の憲司さんが京都で交通事故で亡くなっている。それから百科事典の原稿も紙型も焼き、工場・事務所は空爆でやられ、先生御自身は公職追放で世の中に出られないという時代があるのです。それが昭和二十六年に解除になるのですね。
 解除になると、途端に世界連邦運動に入っていくんですが、そのきっかけが賀川豊彦との出会いです。ご存じのように、賀川は非戦論者で、クリスチャンでもあるわけですが、第二次世界大戦に反戦的な言辞を弄したというカドでつかまり、終戦を迎えるわけですが、その年の九月に賀川が中心になって財団法人国際平和協会というのを設立するんです。その目的事業の第一項目が、世界連邦を日本の外交の柱とするということです。
 賀川は、ご存じのように、終戦のとき東久邇内閣の参与になるんですが、日本は世界の悪者になり、孤児になって国際的に孤立してしまった。どうしたら国際社会に復帰できるか、ということを東久邇総理は賀川に諮間する。賀川は、政府の運動じやなくて、民間の運動として、世界連邦というものを旗印しに平和主義一本でいく以外に、国際復帰はできませんと答える。それじゃお前に任せるから団体をつくってやってくれ、というので、いま申し上げた財団法人国際平和協会ができたわけです。
 その財団をいま私が引き受けてやっているんですが、その目的が世界連邦の建設である。そういう世界連邦運動の組織が実際に日本に生まれたのが、昭和二十三年です。賀川はそのとき副会長になり、会長には尾崎行雄を推薦するわけです。というのは、自分はキリスト教だから、自分が会長になるとこの運動はキリスト教の運動と言われるといけない、というのが賀川の考えでした。
 昭和二十三年に建設同盟が組織され国際的にはその前年、スイスのモントルーで世界連邦世界協会が誕生し、翌二十四年には世界連邦日本国会委員会が松岡駒吉を会長にして結成される、といったぐあいです。国会にも民間にも世界連邦団体は生まれたが、終戦直後の混迷期で運動は振わかった。そこへ下中が出現するわけです。
 つまり、二十六年、ちょうど先生が解除になった頃、世界連邦運動もやっと形ができた。先生は、賀川との出会いで最初に何を言ったかというと、原爆を落とされた広島で「世界連邦アジア会議」を開き、アジアの独立と世界の連帯を呼びかけようではないかというのです。当時まだ独立してない国が多かったわけですが、インド、ベトナム、ラオス、カソボジァ、フィリピン、インドネシア、マレーシアこういうところから民間代表を葉めて、アジア会議を開いた。昭和二十七年十一月のことです。下中の先見の明というか、この会議が引きがねとなって、一九五五年のアジア・アフリカ会議、つまりバンドン会議に思想的にはつながっていくのです。


 パール博士を日本に招く

 
尾崎 下中さんのユニークな発想だという感しがしますね。同じ世界連邦運動を広げていく上においても、原爆の被災国である日本でそれをやるというあたりは、非常に在野派らしい発想が見えるように思いますが、パール判事の招聘は、その時(昭和二十七年)になるわけですね。

 
田中 そうです。下中先生が実行委員長となり、賀川、松岡、下中のコンビで世界に向かって呼びかけるわけですが、ちょうどそのころ、実は私事で恐縮なんですけれども、清瀬一郎先生の御支援もあって、パール博士の東京裁判における判決文を翻訳したものを取りまとめて出版するという作業を私しておったんです。ご存じと思いますけれども、東京裁判は法に名をかりた復警であるとして、全面的にこれを否定したパールの判決書は、当時門外不出の書というか、絶対に公開することを許されなかった。したら生命の安全さえ保証しないと言い誰が願い出てもGHQは拒否しておったんですね。
 ところが、二十七年四月二十八日に日本が独立する。すると裁判権も日本に移る。もし出版してつかまったにしても、つかまえるのは日本の官憲です。それで、当時講談社から独立して太平洋出版というのをおつくりになっていた鶴見祐輔さんが、〃田中さん、私も一緒に引っ張られるから出そうじゃないですか〃と言うわけです。それならというんで、最初に出したのが、世にいうパール博士の「日本無罪論」という本です。
 この本を下中先生が読まれて感激され、参議院議員会館で、私のために出版記念会を開いてくださいました。その席で先生がパールを日本へ呼ぼうと発言されたんです。そして先生は、パール博士歓迎準備委員長に自らなられ、当時の金で二十五万円を出して下さいました。広島の世界連邦アジアアフリカ会議が終わったあと、博士は二十七日間日本に滞在するわけですが、あのお忙しい下中先生がその間ずっと一緒に東京、横浜を振り出しに名古屋、大阪、岡山、広島、博多、福岡とお回りになった。大学や弁護士会やあるいは遺族会などいろんな団体の集まりで講演会や座談会を開いて回られるのであるが、先生とパール博士が義兄弟の契りを結ばれたのも、そのときのことでございます。
 そういうことで、世界連邦アジア会議の成功と全国遊説によって日本に世界連邦運動の組織がひろまり、各地に支郡組織が続々できてくる。それまではどちらかというと、世界連邦もサロン的で、いわゆる同好者が集まって議論を闘わしておる範囲にすぎなかったわけです。下中先生は、大会の後建設同盟の理事長に就任するんですが、古くから世界連邦談義をやっておった人違は、おれのほうが古いんだ、下中は後から来たんだというんで、先生がユ二−クな発想で運動をどんどん進めようとしてもどうもついていけないで文句ばかりを言う。

 
 さもあらんと思う。

 世界平和アピール七人委員会

 
田中 そこで窮余の策として、生まれたのが例の七人委員会……これは茅先生にお聞きしますけれども、何か何人委員会というのが外国にあったんですか。

 
 ラッセルの百人委員会というのがあった。

 
田中 それがヒントですか、「世界乎和アピール七人委員会」というのは。

 
 そうじやないかと思うんですがね。平和アッピール七人委員会は、昭和三十年十一月にできたんですが、たしかその前に、日教組が文部省と対立した最初のとき、文部大臣は灘尾さんですね。私は二十九年から学術会議の会長になったから、二十八年は副会長でしたか、そのときに蝋山政道さんと下中さんと三人して調停に立とうとしたんですよ。ところが灘尾さんは、要らざることであるから引っ込んでほしいと、どうしても承知しなかった。そのとき私は初めて下中さんにお目にかかったんです。

 
尾崎 それまではお会いになっていなかったわけですね。

 
 それまでは知りませんでした。名前はよく知っておりましたけれどもね。

 
尾崎 百人委員会なんかからアイディアを得たにしても、七人委員会の発想は、これまた日本では非常に珍しいユニークなものですね。いままでの組織は、固まれば固まるだけ、小回りがきかないというか、一旦緩急の場合に対処でき難いということもあったと思いますが、世界平和の危機の問題、あるいは国内外のさまざまの問題に対応しながら、臨機応変の処置をとって運動を展開していくという点では、七人委員会の行動性あるいは機動性が非常に見事に生かされたんじやないでしょうか。

 
 私自身は、最初非常に疑間を持っていたんです。やってるうちに世間の反響がだんだん積算されてくるんですね。思いもかけず多くの人から注目を浴ぴるようになって驚いた。それがわれわれの偽らざるところでしょうね。
 最初は昭和三十年十一月十一日につくられたんですが、どうして私が選ばれたのか。日教組との話し合いで知り合ったんですが、私自身は、日本の原子力の問題で一番最初に発言しているんです。学術会議の副会長をしておるとき、講和条約によって原子力の問題を研究してもよろしいと許可になった。それで私は準備しまして、学術会議に提案したのは、日本は原子力の問題についてはまだ何も知らないから、
 原子爆弾の間題にしても、原子力平和利用にしても、文献を集めようじやないか、それに基づいて日本はどうしたらいいかということを決めようじやないか、ということなんです。それが非常な反対を受けた。まるで原子爆弾をつくるみたいなことを言われて、私は非常に不満でして、そういうことから始めるのがどうしていけないのか。しかし、学術会議では非常に反対が強かった。そして学術会議が原子力に対してどうしたらいいかという態度を決めるための委員会をつくったんです。その委員会はそれから一年間やったんですが、まだ文献を集めるには早いという結論を出しただけで終わっちゃった。
 私は、いまの学術会議の会長伏見君と二人でそういう提案をして、とにかく原子力の問題について日本がどういう態度をとるべきかということは非常に重要な問題である、ということで来たんですよ。それが当時左翼の連中に原子爆弾をつくるような宣伝をされましたけれども、そこは下中さんはよく理解されたと見えまして、原子力の平和利用をどういうふうに徹底させるかということで行こう、と。湯川さんも同じ考え方で、原子力に対して日本はどうするか、研究もしないで人様のやった後だけを追っていくものにするか研究もやるか、やるとすれば絶対平和に徹して、原爆等の製造に対しては反対していくか、そういうことが七人委員会の主要な題目の一つだったもんですから、私が選ばれたと思うんです。
 私は当時学術会議の会長という身分で、湯川さんのそのときの身分は……

 
尾崎 京都大学教授で、基礎物理研究所長をなさっていたんですね。

 
 それから、前の文部大臣、そのときはユネスコ国内委員会理事長という立場の前田多門さん、日本女子大学長の上代たのさん、平塚らいてうさん、植村環さんと下中さんでスタートして、以後の態度は、原爆の実験に対して徹底的に反対の表明をしたんですね。それは世間では初め、ただ反対したからといってもだめじやないかという見方だったんじやないかと私は思うんですよ。私達の立場は、新聞記者にもよく言ったんですが、日本人は反対であっても黙っているから困るんだ。おれ達は役に立とうが立つまいが言うよという根本的な態度だった。終局的に世界連邦というものによって平和を達成しよう、と。
 皆さんご承知のとおりに、アメリカ、英国、カナダが一緒になって最初原爆をつくったときには、ドイツに先にこしらえられると困るということが一つの理由なんですよ。それでつくってしまったら、ソ連は、アメリカに持たれたんじゃおれ達はやっていかれないから、アメリカがそんなものを持つ以上はわれわれも原爆をやるといって、五年くらい置いてつくったわけですね。それができますと、アメリカは、ソ連が原爆を持った以上その上のものをつくられては困るから、われわれもその上の水爆をやろう。それは両方同時にできた。両方が相手に責任をかぶせながら、今日のような危険なものを作ってきたんですが、中国の場合もフランスの場合も英国の場合もインドの場合も言うことは全く同じなんです。相手がそういうものを待っている以上、自分達も待たないわけにはいかないじゃないかと、自分が原爆を待つことの責任を全部相手の国にかぶせる卑劣な考え方なんです。
 われわれ七人委員会は、原爆で戦争を抑えているという原爆の抑止力ということがよく言われたが、徹底的に反対した。そういうもんじやない。そういうことに名をかりて、お互いが競い合ってますます危険なものをこしらえていく。それが一たび爆発したら大変なことになるじゃないかという態度で現在に至っている。世間では、実際に当てはまらないようなことを言う連中であるという考えの方も多いんじゃないかと私達思うんですが、最初の言うベきことは言おうじゃないかという態度で徹底してきた。


 
尾崎 あの当時は、ちょうど世論が大きく分かれていた時期であったし、国内的にも非常に厳しい要求があったと思うんですね。だから、それだけに………。

 
田中 反響が大きかった。七人委員会が発表するたびに、新聞もラジオも大きく取り上げましてね。

 
尾崎 日本の良識の発言ということで、それなりの大きな効果があったと思うんです。

 
 そう思います。びっくりしたんですよ。実のところ、私などは、どういうわけでこんなに皆さんが大きく取り上げてくださるのかわからなかったくらいなんです。科学者、文学者、政治家の方も入ったんですが、不偏不党の立場で、自分達の考えだけを一言うことに徹底した。その基礎は、下中さんが築かれた精神にのっとっていたと思うんです。

 パグウォッシュ会議と下中

 
田中 下中先生の原子爆弾あるいは水素爆弾に対する反対態度について、もう一つ、七人委員会と併行して残した仕事は、昭和三十二年にカナダのバグウォッシュという町で第一回バグウォッシュ会議が開かれる。

 
 最初は主としてノーベル賞受賞者の集まり。

 
田中 そうです。それに湯川さんと朝永さんが出席するということで、下中先生が強く支持しまして、バグウォッシュ会議を成功させるために、ぜひ行って下さい。日本の立場をはっきりさせ、科学者としてのお二人の発言もしっかりやってくれというんで、金一封を御寄付されたんです。

 
 出張旅費をね。

 
田中 ええ。その時、有名なバグウォッシュ会議宣言が発表されるんですが、その中に、日本の下中弥三郎がこの会議のために支援したということが謂われているんです。それ以後下中先生は、科学者と核兵器の問題について深い関心をお持ちになった。

 
 バグウォッシュ・コンフェレンスは科学者の集まりで科学は政治に関係ないはずですけれども、やはりある国の科学者であるという立場がどうしても関係しまして、原子兵器は実は戦争の抑止力であるという「核の抑止力」という、非常な強い意見があったんですよ。

 
田中 そうらしいですね。

 
 やっと最近になって、抑止力という考えが間違いだったという考えに到達したんです。

 
田中 つい最近じやありませんか、それは。

 
 ごく最近です。

 
田中 朝永先生に一昨年私どもの世界運邦の会議でご講演いただいたんですが、核兵器は戦争の抑止力じゃないんだと。

 
 抑正力じゃなくて、かえって先鋭化していくものであるという実例を示して、ほんとのバグウォッシュとはちょっと外れているけれども、日本で開いたバグウォッシュ会議の分科会みたいなもので、やっとみんな承認した。

 
田中 いわゆる京都会議ですね。

 
 そうです。

 
尾崎 そうすると、七人委員会のかねてからの訴えがやっと認められたわけですね。

 
田中 それから、私、下中先生のこの歌が非常に好きなんですけど。アメリカがビキニの水素爆弾実験をやりましたね。日本の漁船が被害を受けて、久保山愛吉さんが亡くなりました。あのときに先生が「憎々しビキニの灰の灰かぐら神怒りかも神はかりかも」という歌をつくられたんです。この歌は実に下中式なんですね。というのは、ビキニの灰は神の怒りであると同時に神のはかりごとなんだ。つまり、これで一挙に世界連邦ができるんだ、ヒロシマ原爆の数十倍もの威力をもつ水素爆弾が出現したことによって、人類はその恐怖から逃れるため、急速に世界連邦的な方向に行くであろう。そういう意味で、神はかりであると謳ったと思うんです。
 それから、先生は大西郷の研究家であると同時に、維新の大変な研究家で『維新を語る』という名著も出ておりますが、明治維新で幕府が倒れ新政府ができて日本が統一される。六十余州に分れていた日本が一つの統一された国家に形成されていく。同じように、無政府状態で百余国がそれぞれ軍備を持ち主権を誇示して相対立しておるこの世界が、廃藩置県が行なわれて一つの連邦体、共同体へ行くんだというように先生の世界連邦論は、つねに明治維新が引き合いに出される。つまり、明治維新を鑑にしながら世界連邦運動を進めて来られた。そういう点が下中式で非常に面白いと思います。
 それと先生の思想の根底には、アジア主義、農本主義という考え方、もっと詰めていえば、常に弱き者の味方であった。戦前大アジア主義を唱えたのも、アングロサクソンという幕府を倒して、アジアの独立を達成させるということですね。そして戦後続々独立が達成されたとき先生はこう言いました。田中君、政治的には独立したけれども、経済的には半独立で、人民の多くは餓死線上にある。これを救わねば真の独立達成とはいい難い。アジア、アフリカの真の独立なくして、世界連邦はあり得ない。つまり今日言う南北問題ですね。それを早くも下中先生は世界連邦論の中で言っております。先生の世界連邦のお考えの中には、常にアジア・アフリカ、あるいは新しく生まれてきた発展途上国の経済的な水準をいかにして高めていくか、いかにして北側の生活水準の方向へ引き上げていくか、ということが、一つの命題としてあったと私は思っています。

 出版人教育者としての下中弥三郎

 
尾崎 確かに世界連邦運動、七人委員会の構想は、それそれ下中さんらしい面白さ−−という言い方は悪いかもしれませんけれども、独自性というものが大きく影を投げているという感じがいたしますね。
 そういう問題を踏まえながら、出版人としての下中弥三郎、あるいは国際的な文化という面での下中弥三郎を少し補っていただきたいと思います。平凡社といえば百科事典と言われるくらいに、一つのイメージができ上っている。平凡社は、もともと『や、此は便利だ』で始まった歴史から言いましても、百科事典的な構想は基本的な路線としてあったわけですが、その底には学習権というものを平等に広く多くの人に与える。限られた人達の知識ではなくて誰にでも学習権はあるんだ。それが与えられなかった人達に知識を公開する。そして人類の文化的共有財産を豊かにしていく、といった発想が、出版人・教育者としての下中弥三郎の考えの基礎にあったんじゃないだろうか。世界連邦運動にしても発鹿途上国の多くの民衆に経済的な自主独立を与えたい。何らかの協力をしたいという発想が基礎にあると言われましたが、まさに出版人としての発想も世界連邦運動などと共通した認識から出ているんじゃないでしょうか。


 
田中 昭和三十一年に、日中出版文化交流で中国へ渡りまして………。

 
尾崎 代表団長としてですね。

 
田中 ええ、それで北京協定に調印してこられます。それから、三十三年に日ソ出版文化交流でソ連へ赴きまして、やはり出版文化の交流を約束してこられる。その間の三十二年には中谷武世、中曽根康弘両氏を従えてエジプトへ参りまして、ナセルと握手して、アスワンハイダムを日本でやろうという構想まで打つわけですね。これは工ジプトも本気になって考え、日本のある方面の人も真剣に考えたんですが、何か故障があって、できなかった。
 それは別としまして、出版と平和、あるいはそれに付随して教育の問題をひっさげて、晩年の十年間というものは、下中先生は毎年海外に出られている。縛を放れし鷲のごとく、これから世界にはばたくんだという先生の歌があるんですよ。これは愛妻家である先生が奥様をおなくしになられたということが一つある。それまでは奥様は先生の健康を慮って海外旅行を強くセーブされておられたらしい。


 
 なるほど。

 
田中 どうもそういうきらいがあるんですよ。それで、奥様が亡くなられてから世界連邦、出版文化、教育に打ち込む。

 
その教有のことに一言触れさせていただきたいと思うんですが、出版と平和と同時に、三本の柱としての教育の問題は、先生を語るときに見逃すことのできない大きな柱だと思うんです。ちょっと調べてみましたら、大正十一年に沢柳政太郎先生をかついで、日本国際教育協会というのをつくっておられます。それから大正十三年には野口援大郎、為藤五郎、志垣寛といった人達とともに、新しい教育としての「児童の村小学校」というのをおつくりになって運営されている。戦後は、これは私も関係したんですが、追放解除と同時に生産教育協会という財団をおつくりになりまして、東大の宮原誠一さんとか桐原葆見、東京工大の海老原敬吉、早稲田大学の田中彦太郎といった先生らと一緒に、戦後の日本の農耕技術を高め、工業の生産性を高めていこう、それには働きながら学ぶという例の先生の"万人労働の教育"の根本原理を現場に生かしていこうというので先生はそのことに熱中する一時期があります。
 その中で一番実を結んだのが、長野県の伊那にできた上郷農工技術学校というのを先生がテコ入れしまして、豊川海軍工廠から廃物機械五十台を導入して学校に据え、南信工業高等学校という定時制の高校を建てられた。つまり生徒が働きながら技術を覚え、しかも学費をそれにより補って行くというユニークな学校です。それが県立に移管されて、今日の飯田工業高等学校になっております。

 
尾崎 それに加えれば、大倉山文化科学研究所長に昭和二十八年になられ幾多の優秀な学者を養成し、さらに戦前にさかのぽると教員組合の啓明会を建てたこともありますし、婦女子教育という点で早い時期からいろいろ活躍されて、婦女新聞、児童関係の新聞、そういうものを編集しながらやったという点でも先駆者であるということは間違いないところですね。

 
田中 もともと大百科事典というものも、教育ということが根にあってのものですからね。

 
尾崎 出版人として、ただ単に本を出して儲けようということじゃなくて、それが文化的にどう結びつくか、教育の問題にどう結びつくか、言ってみれば教育実践のための出版だったという面もあったと思いますね。

 
 なるほど。

 
尾崎 つまり、戦前戦後と大ぎな百科事典が何度も出ているわけで、しかも百科事典のたびに平凡社はやや苦境に立ち至ったりした時期がある。

 
田中 ややどころじゃないんじゃないですか(笑)。

 
尾崎 逆に、その苦境を救ったのも百科事典。

 
田中 そうです。

 
尾崎 そういう点では、明暗こもごも百科事典にまつわってくるような出版社ですね。何度そうやってつまずいても百科事典を押し通していく、というその基礎には、教育者としての実践というものが、非常に強く心の中にあったんじゃないかと思いますね。

 
 さっきお話しした文部省と日教組の対立も、非常に悲しまれた。対話がないから対話をしようじゃないかという勧告にも、灘尾さん絶対聞き入れないんで、がっかりしましてね。私は灘尾さんとずいぶん親しく付き合って現在に至っていますが、あのときほど頑強な灘尾さん見たことがない。

 
尾崎 そういった意味では、学ぶ者と教える者との間に断絶があるということも、本当に耐えられなかっただろうと思いますね。下中さんの昔からのいろんな書かれたものを見ても、人間的な交流を土台に置いて、そこからいわゆる人間教育をやるという発想が強いですから、そういう意味でも、例の教員組合の啓明会にしましても、それを単に労働組合的に発展させるということだけじゃなくて、教育の実践というのが一つあるわけで、いつも変わらない、一貫して自分の考えを生涯貫いた方だったと言えるかもしれませんね。

 
 大学の学生騒動というのが、下中さん亡くなられてからありましたね。私は、あの時代に下中さんおられたら、どういうことをやられたかと、時々考えたことがある。非常に心配されたと思いますね。

 
尾崎 ほかにも日本出版クラブの創立をはじめとする出版文化国際交流会の設立や日本書籍出版協会の設立だとか、いろいろ出版界での裏の役割も果たしてこられているわけですけれども、最後に、下中さんの人間的な印象というか、お付き合いを通しての人柄だとか、そういうお話をしていただけないでしょうか。

 やさぶろ窯のこと

 
 私は、下中さんの“やさぶろ窯”の御飯茶碗をいただいているんです。大切にしているんですが、びっくりしたんですよ。こういう趣味も持っておられたのかと。

 
尾崎 もともと丹波立杭焼の………。

 
 出がそうなんですね。

 
田中 小学校の頃から土を練ったり、いろいろ陶器をおつくりになっていたらしいですね。

 
尾崎 立杭焼というのは、非常に素朴な味のある焼ですからね。

 
 趣味として焼物をつくるなんというのは、非常に人間的であるんですね。そういう意味で実にふさわしい茶碗をいただいたんです。大事にしまってある。普段は使わせないんです(笑)

 
田中 先生はまた書道をお好みになって、揮毫されることがお得意で、たくさんお書きになりました。私も何本かいただきましたが、パール・下中記念館ができて、そこへもご寄贈申し上げました。あそこにもたくさん下中先生の書いたものがある。ある書道の専門家にご覧に入れたところが、すばらしい書だと言うんです。

 
短歌も大変おつくりになられたけれども、いわゆる歌人らしい歌ではなくて……。

 
尾崎 それぞれそのときの心懐を託して詠まれるという………。

 
田中 そうなんです。頭の中にひらめいてくるものが、三十一文字になってパッパッと出てくる。あれなども先生の一面でしょうね。

 
尾崎 私は八重樫昊さんに頼まれて伝記をまとめるのに、お宅に何回も足を運んでいろんな話を伺うことができたわけですけれども、伝記はまとまらないで、社史の形に発展してしまいましたけれども、そうやって打ち解けていろんな話を伺っていると、スケールの大きさというものをまず感じさせられましたね。そして一見思いつきに言われることが、だんだん時間がたってみると、ちやんと実現性をもって生きてくる。これは大変なもんだと、後になって教えられることがある。

 
田中 先見性というか、先生が指摘されたことが、今日どんどん実現されてきもするし、そういうように世の中も動いてくる。だから、先生の発想が五年から十年くらいずつ先を行っておられる。そういう感じですね。

 
 そういう下中弥三郎という人間は、誰の感化を一番よけい受けてでき上がったんですか。そういう人間が、ひょこんと生まれるとは思われないんですがね。

 
尾崎 丹波の山奥だけではない発想ですからね。ただ、直接の先生というよりも、先ほどカントから始まって西郷に至るまで、いろいろな人の影響を受けたというお話がありましたが、やっぱり在野であり、学校にほとんど学ばなかったというだけに、自分にとってこれだと思われるものは何でも吸収できる。だから、すべてが先生だという発想の中で培われてきたんじゃないでしょうか。

 
 すぺてが先生だ、というのは、いい言葉ですね。

 
田中 百年に一人出るか出ないかといったような人ですね。

 下中最後のことば

 
尾崎 きょうここでこうやってお集まりいただいているクラブ関東は、ちょうど下中さんが亡くなられた当日、皆さんとお会いした忘れることのできない場所でもあるわけですね。たまたま同席された方たちの御記憶も鮮やかだと思いますけれども、そのときの最後のお言葉はテープにとられレコードにもなっているようですが………。

 
田中 先生が亡くなられたその日、昭和三十六年の二月二十一日の五時頃からクラブ関東で会が開かれたんです。それは、あの松平康東さん(国連大使)が国連で発言されたことが国会でいろいろ問題になった時です。世界の治安に任ずる国連平和部隊の創設に日本も協力するといった松平発言が、日本の海外出兵につながるという意味で国会で問題にされ、松平大便は招還され、帰国中であった。先生は松平さんに同情し、この会に招いた。そのときの出席者は北村徳太郎、片山哲、谷川徹三(哲学者)、鮎沢巌(ILO事務局)、山田節男(広島市長)、時子山常三郎(早大総長)、和歌森太郎、藤田たきという先生方と西沢恒治氏と私。これは何の会というんじゃなくて、とにかく皆さんに言いたいことがあるから集まってくださいという案内状を出したんです。いつもはタイプで打ったり、私が代書して御通知するんですが、そのときは下中先生がちび筆で案内状を書いたんですよ。
 場所はこの建物です。いつも小さいグラスでブドウ酒をせいぜい一杯ぐらいなんですが、その日は大変御機嫌がよくて、三杯飲まれた。それで顔がほんのりしまして、立って皆さんにお話しされた。それが、後から思うと遣言なんですね。
 どういうことを言ったかというと、世界連邦運動に自分が関係してから十年にもなるけれど、一向に目鼻がついてこない、残念だ。これを何とか飛躍させたい、それには皆さんのお力を借りなくちゃいかぬ、ということが骨子なんです。
 私がいま、先生は御機嫌がよかったと申しましたが、それは、ケネディに書簡を出されて、その返事がたまたまその日に着いたんですね。


 
尾崎 記念すべき日ですね。

 
田中 ええ。ご存じのように、ケネディは、人類が戦争を滅ぼさなければ戦争が人類を滅ぽすであろう。力の抗争に終止符を打とう、世界に新しい法の秩序を打ち立てようではないか。という大統領就任演説をするわけですが、これに先生はいたく感銘しまして大いにやれということを手紙にお書きになるわけです。それは、単に励まし程度のものじゃいかぬから、要望という形で意覚を出そうというんで、六つの意見を述べておられる。いま読んでみても、その当時のおかれたケネディ大統領の立場に対する非常に適切なアドヴァイスだと思うのです。
 こういうことを言っています。一つは、アイゼンハワー前大統額のソ連封じ込め政策は誤りである。百八十度転換して、封じ込め政策をやめなさい。第二は、集団安全保障体制というものは平和につながらない。だから集団安全保障制度を洗い直せということ。第三は、米ソは世界平和の責任者である。人類を皆殺しにするような兵器を両方とも山積みにしておるけれども、それだけに重大責任があるんだ。だからそれをどうやったら廃絶することができるか、余人をまじえずソ連首相とさしで真剣に話しなさい。英仏その他の国の思惑を加える必要は毛頭ない。
 第四は、発展途上国への援助は、アメリカもソ連もひもつきでやっている。つまり自分の言うことを聞く国だけに援助しておるが、それはやめなさい。国連に一つの機関を設けて、そこへプールして、そこから必要に応じて援助するプール方式をとりなさい。これなどは、びったり現在に当てはまりますね。第五は、国連の平和維持機構というものをもっと強固にする必要がある。そのための国連憲章の改正を行ないなさい。最後の六番自は、中共を速やかに国連に加盟させなさいというのです。この手紙を早稲田の長谷川先生が翻訳してケネディ大統領に送ったんです。
 これに対する返事が着いたのが、お亡くなりになる二月二十一日。大変いい忠告をいただいて感謝申しあげる。私の在任四年問を通じて先生の意に沿うように努力したいと思う。というジョン・ケネディのサインをした返書がとどいたわけです。
 それと、平和ノーベル賞を得られたイギリスのボイドオア卿という世界連邦の初代会長からも、その写しに対する返事が二、三日前に来て、このおニ人の手紙を当日集まられた先生方に発表されたわけです。
 それでブドウ酒も二杯余分に召し上がって、足がふらふらされていた。皆さんお帰りになったとき、私と西沢君が先生の手を支えるようにして階段をおりだしたところ、わしを病人扱いにするな、その手を放せ、わし一人でおりる、と言ってきかない。仕方なく手を放すと五、六段のところをトットットッとおりて、ポンと踊り場に立ったんです。ニコッと子供みたいな笑顔をされまして、どうだ、ちやんと歩けるだろうと声を出して笑われ、自動車でお帰りになった。
 そして、お風呂をお召しになって、お風呂場で倒れる。いかにも先生の最期らしい大往生ではなかったかと思います。

 
尾崎 いまのお話にもありましたけれども、下中さんが考えていらっしやったことの見通しというか、先見の明というものが、そういう遣言の中にも出ている感じがいたしますね。

 
 ケネディへの六ヵ条は、いまになって、それでなきゃだめだっていうことがよくわかるんですね。こういう考え方が基調になっていたんですね。

 
田中 ほんとうに大したもんです。

 
尾崎 ではどうもありがとうございました。

 
この座談会は下中弥三郎生誕百年記念特集の平凡社社内報(1978年6月12日号)に掲載されたもので、その座談会の全文をご出席者と平凡社のご諒解を得て一冊にしました。

「下中弥三郎を語る−その人と思想」
発行日 1978年10月3日
発行者 パール・下中記念館
東京都千代田区四番町4−1
兜ス凡社内

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