Peace Expedition
  国際平和協会  

関屋貞三郎(せきや・ていさぶろう、−書きかけ)
 官僚、宮内庁次官、戦後は枢密顧問官

 病状の悪化する大正天皇嘉仁に寄り添う貞明皇后は、1924(昭和13)年に8回にわたって東京帝国大学教授・筧克彦の進講を受け、その時の内容は後に『神ながらの道』としてまとめられた。筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、日本人の精神的救済のために日本におけるルターの役割を務めようとしたが、帰国後、日本独自の伝統や文化とキリスト教との相克に悩み、古神道に行き着くことになる。寛容性の根源に古神道を据え、日本人こそが世界精神の担い手であるとして、外教を自在に取り込んで古神道に接木しながら、西洋諸国全般に逆輸出すべきだとも説いた。

 この筧の教えから貞明皇后は独自の宗教観を持ってキリスト教に接することになる。その接点となったのが晩年に内村鑑三の弟子である塚本虎二の影響から無教会派クリスチャンとなった関屋貞三郎とその妻で日本聖公会聖アンデレ教会信徒の衣子である。関屋は牧野伸顕に強く推され21(大正10)年に宮内次官に就任、以後12年間宮内次官を務めたことから万年次官と言われた。しかし、先に触れたように皮肉にも児玉源太郎の娘を妻に持つ木戸幸一や近衛文麿ら宮中革新派らの策略によって33(昭和8)年2月に辞任する。

 実は関屋にとって生涯の恩師となったのが児玉であった。その関係は台湾総督府時代に遡る。栃木県に生まれた関屋は東京帝国大学法学部卒業後内務省に入省、1900(明治33年)には台湾総督府参事官に就き、7年もの歳月に渡って秘書官としても児玉台湾総督に日夜仕える。この児玉を取り囲むように、関屋、後藤新平民政局長と思われる人物、そして当時殖産局長を務めていた新渡戸の4人が揃った台湾総督府時代の写真が関屋の二男である関屋友彦の『私の家族の選んだ道』(紀尾井出版)に残されている。

 友彦も母と同じ日本聖公会聖アンデレ教会信徒、三男・光彦は津田塾大学や国際基督教大学教授などを歴任し、その妻は日本YWCA(キリスト教女子青年会)会長として反核・平和運動に携わった関屋綾子である。この関屋綾子はスウェーデンボルグ主義の森有礼の孫であった。長男・正彦は日本聖公会司祭として活躍し、一時クエーカー教徒として普連土学園の校長を務めたこともあった。

 後藤は衛生状態の改善や教育の普及などの社会基盤の整備に尽力し、さらには農業改革の指導者として同郷の新渡戸を抜擢、新渡戸はあくまで「自発的であること」を尊重しながら精糖工業の振興に努めた。彼らが今日の台湾の基礎を築き、今なお日本と台湾を結ぶ友好の架け橋となっている。



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