Peace Expedition
  国際平和協会  

河上丈太郎(かわかみ・じょうたろう、1889−1965)

 政治家、クリスチャン(Wikipediaより転載)

 東京都港区出身。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。
 古材木商の息子として生まれる。父がキリスト教に入信し、父の影響でクリスチャンとなった。
 立教中学時代、、『万朝報』に掲載された幸徳秋水の「退社の辞」に感銘し、社会主義思想に関心を持つようになった。
 第一高等学校を経て、1915年に東京帝大法学部政治科を卒業。
 高等文官試験に合格したが、立教大学・明治学院 ・関西学院 で教鞭をとった。
 関西学院教授時代、賀川豊彦と出会い、労働学校の講師として、社会主義運動に傾斜。

 1928年、第1回普通選挙に日本労農党から出馬して当選し、8人の無産党代議士の一人となった。
 1932年、総選挙で落選。
 1936年、総選挙で返り咲き。公職追放の時期を除き、終生、衆議院議員。
 1932年、無産政党が社会大衆党として統一。これに参加し、国家社会主義的な政策を支持した。
 1940年、社会大衆党の麻生久が死去後、麻生の名代として大政翼賛会総務となった。
       このことを理由に、戦後、戦争協力者として公職から追放された。
 1951年、公職追放解除。
 1952年、右派社会党の委員長。「十字架委員長」の異名をつけられた。
 1952年、第25回衆議院議員総選挙では、自らの戦争責任を謝罪した。
 1955年、社会党が再統一。委員長を左派社会党の鈴木茂三郎に譲り、自らは党の顧問。
       その後、平和運動に邁進し、岸信介首相に戦争責任を認めるよう追及した。
 1960年、6月17日、衆議院議員面会所で、右翼に左肩を刺され負傷。
 1960年、西尾末広が民社党を結成。動揺した河上派の国会議員の一部が民社党に走った。

 その際、総評の太田薫議長が河上に対して選挙協力と引き換えに、河上派全体が民社党に移らないよう要請したと言われているが、太田の申し出を聞いた河上は激怒して、「自分たちは損得のためにやっているのではない」と太田を追い出したのが真相である。しかし、河上派の動揺を抑えるため、河上は1960年の委員長選挙に出馬し、鈴木派が推す浅沼稲次郎を僅差まで追い詰めた。予想外の支持が集まったことに河上派の国会議員は満足して、河上派の動揺は収まり、河上は社会党の分裂を最小限に食い止めることに成功した。しかし、同年、河上を破って委員長に就任した浅沼は刺殺されてしまい、翌年、河上が委員長となった。晩年、遊説中に病に倒れ病状が悪化する中で、そのような状態で委員長を続ければ、後世に「地位に恋々とする政治家だったとの酷評を受けることになる」として、長男の河上民雄が委員長辞任届けを社会党に提出した。


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