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有馬頼寧(ありま・よりやす、1884−1957) 庶民に尽くした久留米藩当主 |
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明治17年生れ、久留米藩第14代の当主。明治43年東大卒。大正13年、福岡3区から衆議院議員1回当選。政友会に属したがのち伯爵家を次いで貴族院議員に選ばれる。
明治の元勲たちの別荘が多くあった隅田川沿いの浅草・橋場に住んだ。大正8年、石炭荷揚げ人足や工場労働者のために、夜間学校「信愛学院」を開校。入学の条件はただ一つ、「昼間働いていること」で、15、6歳の若者から40歳代のさまざまな年齢層の生徒が通った。当時としては珍しく自由だとか民主的校風だった。
正義と博愛の心を強く持ち、零細農民の救済活動や部落開放運動、関東大震災の被災共同募金会など社会運動に取り組む一方、地元の久留米市に久留米昭和高等女学校を設立し、女子の教育にも力を尽くした。昭和15年には、「全村学校」「農村自治」を説く山崎延吉らに請われ、社団法人農山漁村文化協会の初代会長に就任、機関紙『農政研究』(『農村文化』)を発刊。
貴族であるにもかかわらず、気さくな性格で「伯爵でしたけれど、まったく偉ぶらない人でね、貧乏人でも何でも気軽に口をきいてくれる人でしたよ。だから関東大震災でみんな焼け出された時なんかでも、すぐに炊き出しをしておにぎりなんかを出してくれたり、罹災者に配ってくれたりして本当に人情の温かい人でしたよ」というような逸話も残っている。
しかし軍国主義が台頭する世相のなかで、苦悩する。昭和12年、第一次近衛内閣の農相に就任、その後も近衛文麿と政治生命を共にし、大政翼賛会事務総長となる。一方、信愛学院は共産主義のレッテルをはられ昭和16年に廃校。大政翼賛会に関与したことにより、戦後、戦犯容疑者として巣鴨に8カ月拘禁される。
昭和30年に日本中央競馬理事長。「有馬記念競走」は有馬頼寧の名に因む。プロ野球セネタース・オーナー。32年1月10日死去。44年、野球殿堂入り。
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