マレーシアが提起する新たな大戦史観1999年08月15日(日)萬晩報主宰 伴 武澄
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ここ数カ月から日本人に伝えなければならないと思っている事実があった。マレーシアに滞在する姉から知らされていたのだが、マラッカにある国立の独立宣言記念館に展示してある「Japanese Occupation in Malaysia 1941-1945」という文書である。 筆者は3月その地を訪れて、マレーシアという国の日本に対する基本姿勢に表現しがたい熱いものを感じた。観光でマラッカを訪れた人は多いと思うが、この文書を目にした人はまだ少ないと思う。記念館の館員にこの文書の写しを求めたが「そんなものない」というのが答だった。そっけないといえばそっけない。日本の博物館のように高価な目録やらおみやげの派手なコーナーはない。 幸い、姉がその文書を書き写して、先日ホームページに原文を掲載した。すでにご覧になった読者もいるかも知れない。 まだの方はMikiko Talks on Malaysiaで読まれたい。
●列強のほとんどが足跡を残したマラッカ イギリスはナポレオン戦争でオランダが占領されたどさくさ時から、オランダ領マラッカを事実上支配した。戦後の1825年、英蘭による条約で東南アジアを2国で分割統治する約束をした。ジャワにあった英領の植民地と引き替えにマラヤ半島の要衝を手中に収めた。ボルネオ島のど真ん中に国境が引かれたのもその時である。 イギリスはペナンの開発に着手し、シンガポールという新たな半島の拠点もあり、以降、貿易拠点としてのマラッカはあまり意味があったとはいえない。だが、その後のスズ鉱山経営という観点からみれば、クアラルンプールへの出入り口を抑えた経済効果は小さくなかった。
●4年後に戻ったイギリスが感じた違うマラヤ マラヤ人にとっての第二次世界大戦はマレー半島を舞台にした日英の衝突だった。どちらもがマレー半島の支配者だった。違うのは日本が統治した時間が圧倒的に短かったため、破壊のみで建設する時間がなかったことだ。 日本軍政が終了した後、イギリスもまた軍政を敷いた。合点がいかないのは、人様の領土を踏みにじった歴史はどちらも誉められたものではないはずなのに、戦後は日本が悪でイギリスが善となった。一つだけ言えるのは、日本がマレー半島を手にするのに血が流れ、イギリスがそれを取り戻すのに血を流す必要がなかったことだ。太平洋で日本がアメリカに敗れたため、棚からぼた餅で元の領土が戻ってきたのだ。 イギリスにとっての不幸は、マラヤ人が4年前の従順なマラヤ人でなくなっていたことだった。チャーチル首相がヤルタ会談で「インドはイギリスのものである」と断言したように、シンガポールを含めたマレー半島の海峡植民地は再びイギリスに富をもたらす土地となるはずであった。 だが「invinsible=絶対不敗」だったイギリスが日本に敗れる様を見た後のマラヤ人はもはや元と同じような目でイギリス人を仰ぎ見ることはなかった。 筆者は、以前から「国家機能」のひとつに「歴史編纂」という大事業があると考えてきた。これまでアジアのほとんどの国は西洋の歴史観ををそのまま導入して自らの歴史編纂を怠ってきたのではないかという問題意識を持ってきた。 どうやら戦後50年以上を経て、マレーシアで新しい歴史観が芽生えているようだ。マラッカにある国立独立宣言記念館の文書を翻訳して以下に掲載する。 マレーシアにおける日本占領 1941-1945 1941年12月8日、第二次世界大戦で日本軍がコタバルに上陸作戦を敢行した時、マラヤもまた影響を受けたが、イギリス軍が残したものは跡形もなく破壊された。戦艦プリンス・オブ・ウェールズとリパルズが撃沈されたことは強さを誇ったイギリスの軍紀に大きな痛手を与えました。 |
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