HAB Research & Brothers



野辺山での飢餓と飽食--白頭山追想

1999年05月03日(月)
医師 色平哲郎



 信州の山の村に家族5人でくらしながら、村の医療にとりくんでおります。

 3年前に村に赴任して、野辺山高原の吹雪の冬、氷点下25度の地吹雪を幾度か体験いたしました。冬山の厳しさ、恐ろしさを知るとなおさら春の芽吹きがなつかしくなります。新緑のからまつ林、白樺林が風にゆれる高原の初夏が、とても待ちどおしくなりました。

 標高1350メートルにひろがる野辺山高原を、佐久甲州街道の分水界にあたる平沢峠から、眼前に一望します。裾野が巨大にひろがる八ヶ岳の峰々の上を、白い雲が流れていきます。白い雪を頂く八ヶ岳の岩峰から甲州信州の県境、県界尾根をすべり落ちて、雪解け水が足下の渓谷に流れ下っていきます。

 この野辺山高原は中国東北地方、旧「満洲」から追われて引き揚げた日本全国の開拓民が敗戦後再度の入植をしたところです。長く米のとれない無人の荒野だったところで、戦時中は海軍航空隊の基地が「本土決戦」のために設営されていました。松代大本営と同時期の、朝鮮人を大量動員しての造営だったとききます。

 信州は「神州」とされ、今次大戦末期には信州各地に日本軍の研究所や施設が地下工場として疎開していました。戦後払い下げられた原野には、二度目の入植で切り拓らかれた高原野菜畑が一面に広がっています。

 ●十の痛みを一ぐらいしか訴えない村人
 村営の診療所にはポツンポツンと「お客」が来ます。お客のほとんどが村の御老人です。待合室にはずいぶんと腰の曲がった高齢の方が目立つのですが、元気ではつらつとした表情の老人が多いことに驚かされます 。冗舌なひとはあまりいません。

 村の基幹産業である農業を現役として担っている方が多いので、自分に自信があるのでしょう。簡単には弱音を吐かない、「野性の」老人たちです。そんな患者さんたちとつきあっていると、都会と農村とではずいぶん違うものだと感じました。

 たとえば「痛み」について。都会では十の痛みを百の言葉で表現する方が多いのですが、こちら村では十の痛みは一ぐらいにしか訴えていただけません。重大な病気を見落とさないために、ちょっとしたしぐさや訴えに注意することが重要になります。患者さんの表情や、言葉になる以前の表現を読み取ろうとして、毎日努力することになりました。

 日々の外来診療で、「沈黙の証言」に耳をかたむける瞬間があります。年配の患者さんの変形した腰や膝の骨に刻まれた、歴史と時代の証言です。関節に水がたまった彼女たちの背中とおしりをさすりながら耳をそばだてます。

 すると、つぶれた背骨とすりへった軟骨がひとしきり語りかけてきます。機械にたよることのできなかった時代、牛馬とともにあった村の生活ぶり。隣近所で助けあうしかなかった当時、「結い」とよばれた農作業の有り様を想像することになります。養蚕と炭焼き以外にはほとんど現金収入のない、手作業の時代でした。自動車はもちろん、ガスも電気もない。後にアジア諸国から「おしん」の時代の日本、とのイメージで知られるようになった生活のありようです。

 ●往診のすきまに語られる人生の記憶
 往診の際の、ちょっとしたすきまの時間。ひとりひとりの人生の記憶の一瞬が、輝いた肉声で語られます。兵隊に行った時の苦労。「国費の海外旅行」でなぐられ続けたこと。「肉弾」となって死んだ戦友の想い出。ビルマ戦線の200人の部隊で戦病死60人。本当の戦死は2人で、あとは栄養失調で死んでいったこと。

 峠を越えてお嫁に来た時の驚き。長持をたずさえて馬に乗り、再び生家に戻ることの難しい村境をヨメとして越えた想い出。「新宅」とよばれる分家のヨメとして、本家の庄屋にいびられ続けたこと。村内の親戚筋には語れない思い。

 「あの姉さんには、泣かされた」。たぶん村外者の医者相手には、話しやすいのでしょう。

 百十余年も前の秩父困民党の蜂起と、村をふたつに割った酒屋、庄屋への「うちこわし」の喚声。その後の官憲の追及と弾圧。「口減らし」で子守り奉公に出された想い出。子守りに追われて小学校に3日しか行けず、中退したこと。

 幼い女工として親からはなされて集団で寄宿舎で過ごした「籠の鳥」の生活。しかし、そこの寄宿舎で文字の読み書きを習うことができたこと。戦前の紡績工場でストライキが闘われたこと。読み書きを教えてくれた姉さんが、争議のリーダーとして解雇追放されたこと。

 薪炭を村から汽車で出荷した先、上野駅の傍の問屋で、住みこみで丁稚修行をしてお得意先廻りをしたこと。東京市神楽坂、帝大の文学博士の家に女中奉公に出されていて、ラジオで聞いた戒厳令布告、雪の「2・26事件」でした。

 今はなき、こどもたちの歓声絶えることのなかった山の村の分教場跡。トロッコに乗って、かくれて遊んだ森林鉄道の軌道跡。今は朽ち果てた鳥居ばかり残る部落の神社で、盛大な祭礼がなされたこと。

 関東大震災で被災し、歩いて信州に逃れてきた峠越えの一団。村の消防団員が峠で彼らを迎え、竹槍をかまえて「五十五円、五十五銭」と発声を強いる。濁音が発音できない者は、「井戸に毒を入れて歩く朝鮮人」である!

 ムラの有為の青年たちを、数次の帝国主義戦争の戦場に送り出した、村境の「別れの松」。この松の樹下には、赤ん坊を背負い子どもの手を引いた女性が、出征する兵士となった夫を見送る立像がひとつ。空襲下の東京から焼け出され逃れてきた、痩せた「縁故疎開」の一群の家族。生活基盤と農業経験のない彼らの、村での肩身の狭い想い。ひもじさの時代でした。

 戦後の村を大混乱におとしいれた、農地解放をはじめとする戦後改革の大波。没落する地主と正義感あふれる青年団活動。日本共産党による「山村工作隊」が歌った革命家とと農民運動の高揚。しんぼうにしんぼうを重ねた彼や彼女のからだに刻まれた時代のうねり。これらの痕跡を日々感じ取り、聴き届けるのが私の村医者としての仕事です。

 ●遺骨の代わりに石ころを安置し続ける老女
 自分の娘の顔を見ても、誰だかわからなくなってしまった老いた女性。嫁いで60年にもなる嫁ぎ先の家の間取りをすっかり忘れてしまう。まるで子どもにもどってしまっていて、「ごちそうになりやした。」と言う。食事が終わると、自分の生まれた隣村の実家に帰ろうと帰り支度を始める。

 「学問もねえからよくわからんだども、、、おまんま食って、、、いつでも食べたい時に食べられる。こごとがなくて、家じゅうにけんかがなく、気楽だ。おこることもなく、達者だ。家でよく寝て、あんどに暮らせる」
 「幸せなんですね」
 「あんまり幸せすぎて、いったいどういうことだ、と考えこんでしまう」

 南方フィリピンへ「出征」して、帰ってこなかったひとり息子。息子の名前は、告げられた老いた女性の意識を呼び覚ましていきます。この家の仏壇には、レイテ島から届いた骨の代わりの石ころが入った骨壷が安置されています。難聴で、惚けてしまっているはずの彼女が「ものがたり」はじめます。「事実」ではないのかもしれません。

 しかし「銃後」と長かった戦後の彼女を支えた「真実」がほとばしるひとときです。「死んではいない。」彼女は半世紀たっても、惚けてしまっていても、骨になったはずの息子の帰りを待ち続けています。同じフィリピンから帰ってこなかったひとり、23歳で戦死した詩人竹内浩三の「骨のうたう」を掲げます。

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

 苦労を苦労と自分にも他人にも感じさせず、必死に生き抜いて世紀末の現代日本を迎えるに至った人々です。首のうしろにザクリとえぐれた刀傷が残っていた女性がいました。フィリピンのミンダナオ島ダバオからの引き揚げ体験を、ひとことだけ語っていただいたことがあります。銃剣の傷というものをはじめて見ました。詳細に問い直すことが、わたしにはできませんでした。侵略側の一民衆としての彼女が受けたこの傷は、現地民衆の受けた、これに数十倍する苦難を彷彿させるものです。

 ●寝たきりで目の見えない高齢の女性が「昔語り」をする日
 寝たきりで目の見えない高齢の女性がいました。すっかり呆けてしまっていて、うんちおしっこが垂れ流しになる日があります。しっかりしていて、「昔語り」をする日もあります。「満洲」からの引き揚げ者でした。御本人と、本人を介護する高齢の娘さんからポツリポツリと伺います。

 「わしゃ、むかしもんだから、、、よくわからんだども、、、」と彼女は語りはじめました。

 分村して集団で満洲にむかう前、信州の山の村では電気も水道もない生活だったこと。信じられないほど貧乏で、海外で一か八かの運試しをしてみることになったこと。満洲の入植地での、考えられないほどに恵まれた生活。生まれてはじめて白米を食べる生活になったこと。はじめて自分の土地というものを持った感慨。

 しかし何故か、既に開墾してあった土地に「入植した」こと。主に山東省出身の中国人から武力でとりあげた開墾地を、日本人向けにへ提供し直したものであったこと。使用人として朝鮮人と中国人を使っていたこと。朝鮮人には米で、中国人には麦で給料を払ったこと。こどもたちの友達にも朝鮮人や中国人がいて、みんな混じって各国語でしゃべって遊んだこと。

 「紀元は2600年、ああ一億の胸は鳴る」

 ところが「五族協和」の筈なのに何故か、列車や駅が次々に「馬賊」に襲撃されたこと。身代金を求める拉致事件まで伝わってきて、恐ろしかったこと。周囲の中国人が「ひとさらい」に見え始めたこと。匪襲に対抗した日満軍警の英雄的「討匪行」の報道。

 「満洲国」の治安対策として中国人部落には連座制が敷かれ、通匪者が出ると全村に責任が転嫁され、検挙されるとの噂。「満蒙は日本の生命線」

 ●抑留されたシベリアから生還した男性
 別の、引き揚げ体験をもつ女性。往診すると、自宅の神棚に写真がひとつ。3歳で収容所で死んだ末娘の写真でした。極東ソ連軍の侵攻で東安省千曲郷から山のなかを西へ逃げたこと。食料を善意の中国人に分けてもらい、夜だけ歩いて迷いながら満鉄線沿線にたどり着いたこと。敗戦後ソ連軍に捕まってからの、収容所での長くて暗い危険な夜のはなし。

 零下25度の冬、夜のうちに亡くなった人のからだが室内でたちまち凍ってしまう。しらみたちが周囲の暖かいほうへ逃げ出して来る。生きている人のからだへ乗り換えてくるしらみたちのたてる、音にならない音。それはまた、「朝になれば死者から余分の衣類がもらえるな。」ときこえる音でもあった。

 発疹チフスで、周囲の子どもたちがどんどん死んだこと。錦州から葫蘆島を経て日本に引き揚げたこと。ソ連侵攻直前に召集されて、結局シベリアから帰ってこなかった夫を待ちながら、3人の息子を育てあげた

 抑留されたシベリアから、生きて帰った男性が語ります。何故あんな深い長白山の森の中に、抵抗する「匪賊」がいるのか、見当もつかなかった。昼は「満洲国」通化省だが、夜は匪賊の支配する「遊撃区」になってしまっている。「治安不良地」では満洲国と匪賊の双方から、民衆に働きかけがなされているようだったと。

 日本人と(漢奸と呼ばれる)日本人に協力する中国人からなる「満洲協和会」は、中国農民のなかへとけこんで「工作」にあたっていた。

 或る日本人協和会幹部は「村人のよろこびや悲しみ、なげき、それは一体何であるか、それを正しくつかみ、それに応えるために立てた方策、それ以上の方策がどこにあるか。この地球上にそれ以上の方策があるか」と日頃語っていたという。

 一方「遊撃隊」の男女は、小さなパンフレットやビラをもって村々を廻っていた。文字の読めない人々のためには歌をうたって、工作に入っていった。

 「歌がわたしの最初の先生かもしれない。小学校に行ったこともない山の村の、無学の少女だった。民間に伝わる独特の節まわしを利用して、そこへ反日本帝国主義、反封建主義の歌詞をつけてあった」

 「満人」には警察から「良民証」が発行されるようになった。住んでいた家から、3日以内に出て行くように言われた彼ら「良民」の村。ひとつひとつの村が脅かされ、つぶされ燃やされた。強制移住させられて、高い土塀や木の柵の中に封じこめられた農民たちの「集団部落」。

 出入口には警備員がいて、四隅の望楼から四六時中の警戒監視がなされていた。「良民」との接触を隔てて無人地帯を作り、匪賊の糧道を断って飢えさせて包囲する、との満洲国軍政部方針だった。

 入植地周囲の深い森「千古斧鉞(ふえつ)を加えざる原生林」に討伐のための道路が開かれていく。山中に孤立して暮らしていた農民の村がどんどん強制的に里に下ろされる。共産匪をはじめ「満洲国腹中の癌」といわれた中国人、朝鮮人の匪賊リーダーの生首が、役場前や警察署前にいくつも晒し物にされていた。

 彼らの死顔や遺留品の写真が新聞でくりかえし報道された。仲間を裏切って満洲国に帰順し、討伐隊の先達をつとめる土匪もいた。満洲国の存在を否定し、日本の支配に武力で抵抗するゲリラたちであることを、当時全く知らされていなかった。戦後ずいぶんたってから、反満抗日のたたかいを担った「東北抗日連軍」(抗連)とよばれる男女であったことを、はじめて知った。

 ●満洲で死んだ或る日本兵の遺書
 戦後「星火燎原――中国人民解放軍戦史」としてまとめられた本の中に、「抗連」14年の苦闘についての記載がある。その第4巻、李延禄将軍の文章に、この頃満洲で死んだ或る日本兵の遺書の全文が写されてあった。

 親愛なる遊撃隊の同志のみなさん。
 わたしは、あなたがたが山あいにまいた宣伝物を読み、あなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました。あなたがたは、愛国主義者であり、また国際主義者でもあります。
 わたしはあなたがたにお会いし、ともに共同の敵を打倒したいと、切に思っています。しかしわたしはファシストのけだものたちに取り囲まれていて、あなた方のところへ行くことができません。わたしはみずからの命を絶つことにしました。わたしが運んできた10万発の弾薬は、あなたがたの軍隊に贈ります。どうかみなさん、日本のファシストをねらいうちしてください。わたしの身は死のうとも、革命の精神は生き続けます。神聖な共産主義の事業の一日もはやい成功を祈って。

 関東軍間島日本輜重隊 日本共産党員 1933年3月30日 伊田助男

 ●白頭山と似ている野辺山高原の風景
 毎日の食卓がまるでお正月のようになった、幸せいっぱいの日本列島。毎日毎日ご馳走がならんでいる現代の日本にあって、腹にひびく「ものがたり」を大事にききとろうと努めながら、日々の診療にとりくんでおります。そして伊田助男の自死した満洲国の東辺道、長白山脈の山麓地帯について。

 15年前に一度だけ訪れたことのある中国と朝鮮の国境の山、朝鮮民族の聖なる峰です。朝鮮人は白頭山、中国人は長白山と呼んでいます。広大な裾野をもつ山塊で、周囲は「千古斧鉞を加えざる原生林」。私は中国側から登りましたが、長く地図上の空白地域として残り、「白色地帯」と呼ばれていました。

 標高2744メートルの白頭山は、八ヶ岳とほぼ同じ高さです。ただ緯度がずいぶん北にあり北緯42度といいますから、北海道の襟裳岬付近に相当します。深い針葉樹林におおわれた太古の森の奥に聳える休火山で、頂上に「天池」という青い大きな湖がありました。1000年ほど前の大噴火では、当時麓にあった渤海という国が滅び、噴火の噴煙と火山灰は海を越えて日本列島、現在の青森県の津軽十三湊に届いています。

 古く白頭山一帯は漢の楽浪郡、次いで高句麗に属し、渤海の滅亡後は遼(契丹族)、金(女真族)、元(蒙古族)とさまざまな民族の支配を受けていました。現在の中国と朝鮮を隔てている二つの川、鴨緑江と豆満江の源流地帯にもあたります。

 中国側を流れるもうひとつの大河黒龍江(アムール川)の上流、松花江の源流のひとつにあたる二道白河は天池から流れ出しています。天池からしばらく下ったところで大きな滝になって、ゴオゴオと水煙を上げていました。李朝の時代に、白頭山は明と朝鮮の国境になっています。

 白頭山の東北、海に下る豆満江の北側が渤海の故地、上京龍泉府や東京龍原府のあったところです。渤海は豆満江の河口、現在のウラジオストク付近から海を渡って、日本列島の能登や敦賀の港と交易をしていました。

 現在の中華人民共和国吉林省の東端に位置する延辺朝鮮族自治州の場所にあたり、朝鮮人たちは「北間島」と呼びならわしていました。ちなみに白頭山北麓、伊田助男自死の地あたりは「西間島」と呼ばれています。

 秀吉の時代になると、半島を突き抜いた加藤清正の軍勢が豆満江を北に渡って、現在の延辺自治州の龍井市にまで攻め入っています。現在の延辺自治州では、人口240万人のうち約40パーセントが朝鮮族と呼ばれる人々です。

 もともとこの地には朝鮮民族が多く住んでいましたが、今世紀になって更に南からの流入をみることになりました。日本が朝鮮半島を抑えにかかることによって、豆満江の南側、咸鏡道以南は日本の軍事制圧下におかれ、朝鮮人であることを否定される時代を迎えたのです。

 ●朝鮮人たちが「北間島」と呼んだ延辺朝鮮族自治州
 半島部を植民地化された朝鮮人の一部は豆満江を北に渡って「北間島」に逃れ、或いは押し出されて脱出し、中国領で暮らすようになりました。この頃中国も清から中華民国になり、軍閥そして国民党と共産党が割拠して、骨肉相食む抗争の動乱期を迎えます。

 中国東北部では、北へ脱出した朝鮮人たちを追うかのように、シベリア出兵の時も含め、日本軍が何度も何度も「北間島」「西間道」を軍事占領します。そして最終的には日本軍の自作自演「満洲事変」によって、山海関から東の全東北地方が中国本土から切り離されてしまう。

 中国人の愛国者が血涙をもって憤った、忘れられない屈辱と亡国の1931年「9・18」事態です。蒋介石の国民党政権はたたかうことなく東北失陥を許し、日本の関東軍の後ろ盾により、帝政がひかれます。この地は大日本帝国の傀儡、満洲帝国の間島省にされてしまいました。

 中朝国境の北のこのあたり、「北間島」龍井市に生まれた日本とつながりの深い人物に、詩人の尹東柱(ユン・ドンジュ)がいます。第二次世界大戦のさなか日本に留学していた時、朝鮮語で詩を書いたことから、朝鮮独立運動に関与したとの嫌疑で特高警察に捕まりました。懲役刑をうけて福岡刑務所に服役中の1945年2月、若くして獄死しています。彼の「序詩」を掲げます。

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒される。
 この尹東柱の故郷龍井を訪ねる旅を、私ども「日中恊働「飢民」支援フォーラム」はこの8月22日から29日まで企画しております。白頭山や延辺朝鮮族自治州の歴史にご関心をお持ちの方に広めたく存じます。詳細はフォーラム事務局まで tel/fax 048-831-9512
 フォーラムのホームページはhttp://www.jca.apc.org/~mtachiba/kimin/
 色平さんへのメールはDZR06160@nifty.ne.jp

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