HAB Research & Brothers



中朝国境の避難民に関する緊急報告

1999年03月14日(日)
日中フォーラム 山田 修



 北朝鮮の食料不足を援助する「日中恊働『飢民』支援フォーラム」が1月30日、東京ウィメンズプラザで「中朝国境の避難民に関する緊急報告会」を開催した。長野県の内科医、色平哲郎さんが問題提起し、山田修さんの「訪中報告」、新潟の僧侶、野口法蔵さんによる「一日断食デー」の提唱があった。
 最後に山田さんを伴って訪中された野口法蔵さんからの呼びかけ文を掲載した。緊急報告会呼びかけ人: 色平哲郎、大島ふさ子(東京都)、橘 雅彦(埼玉県、大学教員)。以下はその報告である。
 私にとって今回ははじめての訪中でした。韓国の『民族助け合い仏教運動本部』(KBSM)の呼び掛けに応じ、1999年1月半ばの8日間、中朝国境を越えて中国領に入った北朝鮮食料難民の実態を調査しました。

 KBSMは韓国の仏教界が主催する南北支援組織で、アメリカで設立した別組織を通じて北朝鮮咸鏡北道の羅津・先鋒特別区でも食料救援事業にも取り組んでいます。中国人4名を駐在させて、現地の人々が20人ほどで食料の炊き出しや、保育園児向けの栄養食となるトウモロコシ食品の調理などに取り組んでいます。

 事前の情報では、国境地帯では人身売買をはじめ、難民がらみの犯罪が少なくなく、中国の公安に見つかり次第、北へ強制送還され、北へ戻った後は北の警察に所持品、金品を没収された上、暴行を受けるというものでした。

 延吉市は吉林省延辺朝鮮族自治州の州都。朝鮮語でヨンギル、中国語でイェンチーと呼ぶ。北朝鮮に最も近い都市で難民が多くいるといわれています。同自治州は、人口200万人のうち朝鮮族が40%を占め、北朝鮮とのルートとなる橋も7カ所あります。

 延吉市へは北京から寝台列車で27時間かかります。中心部には高層ビルが建ち並び、中国というより、韓国の地方都市に見間違うくらいハングル語の看板が林立しています。同一民族でつながりのある人も多いため、韓国資本の進出がすざまじく、市場にも韓国製品があふれる活気のある街です。

 市内の延辺大学には日本人留学生も多く、中学校では3年間日本語を勉強するそうで、カタコトの日本語を話す人も少なくはありません。

 街にはトヨタやニッサンの車、それも比較的新しい車が多いのに驚きました。北京では中国で生産したプジョーやシトロエン、フォルクスワーゲン、それに韓国のヒュンデやデェウーといった車が多いのと対照的でした。これらの日本車はほとんどが北朝鮮からの密輸車で、最近は公安の取り締まりも厳しくなり、数は減ったそうです。

 延吉市では、北の難民の子ども2人、難民保護をしている宗教者、北朝鮮の兄弟に面会に行った74歳の男性、近郊農村の56歳の朝鮮族農民の男性、農村に隠れ住む食料難民の奥さん、北と取引のある現地の経済人の7人にインタビューすることができました。

 ●国境を越えれば食べ物がある
 まず二人の難民の子どもです。18歳のA君は慈江道の出身で、もうひとり16歳のB君は両江道の出身です。いずれも中国国境に近い山岳地域の出身者です。この二人は身長は160cm位ありますが、体つきが貧弱で、見た目には中国人の12才児と変わりがない印象でした。

 私は写真でしかみたことがありませんが、日本の終戦直後の戦災孤児を思わせる顔つき、体つきをしています。たとえていうなら、ふかしたてのジャガイモにハシで孔をあけて目鼻をつけた、とでもいうような、今の日本にはいなくなった素朴な顔つきです。

 彼らはいずれも故郷ではご飯が食べられず、B君は母親だけが故郷に健在ですが、他の家族は病気や飢えの為に体が衰弱して亡くなり、あるいは行方不明。北朝鮮の中で列車にタダ乗りし、物乞いや盗みをして放浪していたそうです。彼らの話では故郷の村では村人の多くは亡くなったり、離村したりで、今では半分は空家になっているとのこと。

 「放浪しているときに仲間となり、孤児たちの噂で『国境を越えて中国へ行けば食べ物はある』と聞いて、国境の川である冬の図們江が凍った時に歩いて中国へ密入国してきた。最短で30m位の川幅です。中国に入ってからは言葉の通じる朝鮮族から食べ物や着る物を恵んでもらったり、バスの運転手の好意でタダで乗せてもらったりで、めぐりめぐって延吉市へ着いた。街を徘徊している時にキリスト教の信者らに保護され、最初は教会でかくまわれた」

 何度か訊ねているうちに少しずつわかってきたことですが、彼らは実ははじめての中国ではなく、自発的に北朝鮮へ帰ったり、あるいは中国国内にいる時に公安につかまって強制送還されたりで3〜4回は国境を出入りしているのです。

 「中国公安に『飢民』として強制送還される場合は、まず留置所に2週間入れられ、男女10人くらいずつマイクロバスに乗せられ、延吉市から車で1時間ほどの図們市に行き、図們江にかかる国境の橋を渡って、北朝鮮に送られて行くのだ」

 A君「北の警察へ引き渡された時は所持品を没収され、かなりひどく殴られた。身寄りがないので孤児院へ入れられ、3度の食事には茶碗一杯のぬかと身の入っていない塩汁が出された。慣れないうちはのどを通らなかったけれど、慣れたら全部食べられるようになった」

 「中国から「北」へ向かう道中、公安のマイクロバスの中で居合わせた大人の難民たちは次々と走るバスの中から飛び降りて逃げ、「北」へ送られたのは子どもばかりになった。妊娠した若い女性が途中で飛び降りた時は、目の前で着地に失敗して頭を打ち、意識不明で図們の病院へ送られた」

 後から聞いた噂では、その女性を病院に連れていったが、入院費用を公安が負担しなければならず、その予算がなく、公安も困っているらしいと。最近では増える食料難民を留置し続ける予算も中国側にはなく、つかまっても犯罪でもおこさない限り「悪いことをしないと約束すれば、釈放する」と説教され、半日か1日で釈放された人もいるとききました。

 以上のききとり結果について少し考えてみました。延吉にいれば言葉もナマリさえ直せば、朝鮮族にまぎれて暮らせるし、善意の人からお金や衣類、あるいはうまくいけば仕事や住むところの提供を受けることもできる。ではなぜ自発的に戻ろうとするのだろうか。

 ●難民にもひそむ望郷の念
 第一に望郷の念があります。延吉でひっそりとくらせば行動の自由こそ限られているものの、物乞いしてでもお金は入手できます。しかしある程度たまると北に残っている家族や親戚にお金や衣類を渡そう考えて帰ろうとする。あるいは行方不明の肉親を探しに帰るということがあります。A君は後者、行方不明の兄をさがしていました。

 B君は母親にお金を届けました。中国の100元札と500元札を筒状にまるめ、ラップでくるんで、尻の穴の中へ入れる。少額は靴底の内へ入れるなどして、すぐに相手に渡して逃げるための分も分けて持つようにするなどのやり方を彼らからききました。北朝鮮では中国元は北朝鮮のウォンに両替でき、現金さえあればヤミ市で食べ物も買えるとのことでした。

 第二に、延吉市にいては「住む所がない」。衣食の提供はあっても住まいまでは、短期間ならともかく、長期には難かしい。以下のように罰金制度まであるとききました。延吉ナマリを器用に話し、世渡りの上手な人でもないと公安に密告されたりする。かくまってくれる人がいても公安にバレると5000元(約7万円)の罰金を支払わなくてはならず、この5000元という金額は最貧困層の年収の約2年分弱に相当するものです。

 第三に身分が不安定なところへもってきて、人身売買や差別、仕事についても中間搾取などの人権問題、いつ強制送還されるかわからない不安や見えない圧迫感があるようです。

 ●キリスト教会に行けば助かる!
 次は難民の保護をしている宗教者の話です。延辺朝鮮族自治州にはキリスト教の教会が200ヶ所以上あり、延吉だけでも十数ヶ所、非公認の小さいものもいれると50カ所以上とききました。80%がプロテスタント、20%がカトリックだそうですが、それぞれ横のつながりはないとのことで、信者が街で見つけた食料難民を連れてくる。あるいは「教会へ行くと助けてもらえる」と口コミで難民が来る。

 難民が来るとシャワーを浴びせ、新しい服を着せ、多くは皮膚病や肺病を持っているので、その場合は病院へ連れていく。その後仕事を紹介したり、住む所を見つけ、子どもには読み書きを教えたりする。公安のトップには難民が衰弱している場合には人道的に3〜4ヶ月であれば面倒みさせてほしい、と黙認してもらっているが、年に数度ある「難民送還キャンペーン」の時には他の土地へ逃れさせる。

 公安にはこのキャンペーンの時にはつかまえた人数に応じてボーナスが出るらしいとのはなしをききました。2年前に衰弱した27才の女性がはこびこまれてきた時、病院で点滴注射して治療してもらったが、3日後に死んでしまったそうです。教会が殺人罪に問われそうになったが、遺体を火葬する前に検死してもらい、助かったこともあると。教会の多くは似たようなことをしているようですが、表だっては動けないので、はっきりした全体像はわからない、とのことでした。

 ●1晩で食べ尽くした25kgのコメ
 今度は平安南道の地方都市に住む弟に面会した延吉市内の74才の男性の話。弟さんは元炭坑労働者で現在は定年退職して、奥さんと娘さんの3人家族。97年に手紙で「食べ物がないので送ってほしい」と連絡があり、すぐに国境の図們で25kgのコメ袋を5つ買って国境バスで北へ入ったそうです。コメは中国国内では1.5元/斤(42円/kg)の値段に対し、北の税関で1元/斤(28円/kg)が課税されました。

 北の肉親に会うにはいつ、どこで会うかを申請しなければならないそうですが、許可が下りるのにとても時間がかかったそうです。また、北の国内の列車運行は列車の部品不足などから、時刻表通りではなく、一日の行程が四日かかるなど、国内の移動や手紙のやりとりもスムーズにいきません。親戚訪問であれば北朝鮮国内のどこへでも行けるという中国人もいますが、ごく短時間、しかも国境沿いの街でしか親族訪問の許可が下りないようです。

 面会は図們の対岸の街の民家で一泊する形であったそうです。あくまでも親戚訪問の形式なので、その民家が親戚であったことにして、縁のない人に頼んで泊めてもらうことにした。弟の話では定年者には配給と年金はなく、かなり衰弱していた印象でした。 弟とその娘、そして泊めてもらった家の家族8名の合計10人で、25kgのコメを一晩で食べ尽くしたことにこの男性は驚いていました。

 前述の通り北の国内の列車事情がかなり悪いので、4袋のコメをとても家へ持っては帰れないだろうと心配したそうです。話の様子からは日本の終戦直後の買い出し列車のようなスシ詰め状態らしいと想像しました。

 ●延吉なまりを覚えれば定住も!
 延吉近郊の朝鮮族30世帯(人口110人)の農村でのインタビュー。56歳の朝鮮族農民の男性です。

 「延吉市内の親戚が17歳の難民をかくまっていることをたまたま伝え聞き、本人がケガをしていたので、農繁期にこの村に2カ月間居候させました。家族同然にうちとけ、良く働いてくれたが、ナマリがひどく、密告の危険があると考え、延吉市へ帰しました。家の小さい娘は「兄さん」といって慕っていたんです」

 「村には今も26歳と27歳の難民の青年がいるが、村のナマリにすぐなれた。完全に村人にとけこんでいるので、密告さえなければバレることはないであろう。27歳の青年は家長と一度ケンカして家を出たが、すぐ戻ってきて謝り、一緒に暮らしている。村人は宗教を持たないが、善意から彼らをかくまっているし、彼らは田畑を良く手伝ってくれるので、助かっている」

 「この村の1人当たり年収は約1400元(2万円)で、一家族4人だと総収入は5600元になる。過去に公安に見つかり、18,000元(25万円強)をとられた農民や、一晩かくまっただけで5000元(約7万円)の罰金をとられた人もいる。村には年2度は公安がキャンペーンで難民を探しに来るが、村長が気骨のある人で『難民はいない』と言い、みんなで協力してかくまった」

 北京でのある国連関係者によると、今中国では都市と農村の経済格差が大きくなり、農民には年金も支給されていない。農村でかくまわれている難民と一般の村民とでは、日常生活における国の保障面では(うまくまぎれこんでさえいれば)この先もそれほどの差はない。

 違いがあるとすれば身寄りのない天涯孤独のさみしさと、居候あるいは養子としての肩身の狭さがある。あと中国の制度では、申請すれば田畑を30年間無償で借りられ、その後は本人の土地になる、という制度があるが、難民には法律上はこれができないので、一生小作人として終わるということです。

 ●一番の心配なのは北にいる両親
 次は延吉市から車で3時間程離れた農村で、その村に住む親戚を頼って、1年前に中国に逃げてきた20代後半の主婦の話。一緒に逃げて来たのは当時3才の男の子と夫の母、夫の妹の5名。現在母親は夫の妹、つまり自分の娘を人身売買したことで村にいられなくなり、行方不明。夫は北へ残った親戚を訪問中で留守。インタビューは留守を守る奥さんでした。

 出身地は咸鏡北道。夫は北では鉱山の建設労働者で、今も親戚の紹介で中国の鉱山で働いている。北では給料は安く、また配給食料がはほとんどなかった。食べられないので、家族総出で山へ柴刈りに行った。一日全員で働いて70ウォン(一北朝鮮ウォン=0.7円)の収入があったが、ヤミ市場ではトウモロコシが44ウォン/kgで生活は苦しかった。

 「今の村での生活は村人みんなから良くしてもらい、衣食住とも北にいた時からみれば信じられないくらい快適である。ただ、これほどみんなに良くしてもらって、北に残してきた肉親のことを思うと申しわけなく、逆にかなしくなることがある。今一番困っていること、心配なことは、北にいる肉親」

 後はただ泣かれるばかりで、それ以上の質問はできませんでした。

 ●北朝鮮に食料はあるが国民は買う金がないだけ
 最後のインタビューは北とのパイプをもつ現地の企業家。彼の意見は以下の如くです。

 「北朝鮮内部には食料は十分ある。ただ国民はそれを買う金がないだけです。だから支援するなら米よりも現金を直接手渡す方がベター。資金や食料を現地へ運ぶのを北とパイプのある中国人に依頼することは可能ではあるが、たかり体質になってしまい、今後の商売がしにくくなると考える」

 NGOなどの効果的な支援方法をたずねたところ、以下の返答。

 「卵をあげるか卵を産むニワトリをあげるか、どちらが有効か考えてみてはどうか。例えば咸鏡北道の鏡城という所では良質の陶土が産出されるし、陶磁器をつくる工場もある。しかしエネルギー事情や食料事情がわるく、稼働していない。そこへ外国の企業が投資して現地人へ給料を払えば直接現金が渡せるし、継続的に支援がつづけられる。日本のTOTOやINAXなどへ産出した陶土を輸出したりするとか、検討の余地はあるのではないか」

 「あるいは北朝鮮は工業化が進んでいない分、雄大な自然が多く残っている。観光面でバックアップしてもよいし、水がうまいのでミネラルウォーターの工場を作ってブランド品として売るなら低資本ですむ。以上の様な支援も検討してはどうか」

 ●印象深いふたつの出来事
 さて、私が直接あって話を聞けたのは以上の7人の人達でしたが、他に印象深い2つのことがありました。ひとつは国境の町図們でのことです。国境は250m程の橋を隔てているだけですが、記念撮影をしていたら、中学生くらいの子どもが二人寄ってきて、何か言っています。

 現地の人に通訳してもらったら、彼らは凍った川を歩いて渡って来た目の前の対岸の村の19歳と16歳の子どもで、「中国の金をくれ」と言っている、とのことでした。見た目はジーパンにブランド物の上着で北京や日本にいる若者と大差なく、血色もよかった。通訳してくれた人がからかってポケットの中を探ったら洋モクが出てきました。このように国境地帯では交易のためか比較的豊かそうでした。

 もうひとつは北京に帰る寝台列車の中のことです。延吉駅を出てすぐ私の斜め向かいに、15才くらいの男の子が座りました。その後すぐ車掌が検札に来て、その男の子は無賃乗車がバレ、また中国語が話せなかったので、私の前に座っていた朝鮮族の女性が通訳したところ、やはり難民の子どもでした。彼はすぐ次の駅でおろされ、公安に引き渡されましたが、車掌も公安もけっして手荒なことはせず、その点はA君から聞いた通りでした。少なくとも中国国内では特別なことでもない限り、ひどい目にあうことはないというところが確認できました。


 ●お願い−「一日断食デー」
 今年1月5日より25日まで中朝国境を訪れて参りました。北朝鮮北部と中国の国境で中国側へ越境してきた人々と接してきました。飢餓の状態は大変ひどいもので、飽食の日本が思われてなりませんでした。

 日本では今、不況対策として地域振興券が交付されますが、食生活は相変わらず飽食で、食べ物も残して捨ててしまっています。もし、ここに善意、そして人としての同情をお持ちの方があれば、広くお金、地域振興券(分の日本円)のご協力を求めたいと思います。日本円を中国元に替えて現地に届けたいと考えています。 又、私自身も現地で三日間の断食をしました。世界の飢えているものの為に、当面は中朝国境の食料難民の為にと考えています。毎月の初日の一日の三食を断食し、その分の食費として千円を集めて持っていこうという、修行と同情を兼ねた行為です。こういった行為は現地の人を感動させます。百人の行為を目指しています。皆さんのご参加をお待ちしております。(野口法蔵(僧侶)新潟県)

 ※会計報告・事務連絡
 1月30日の集会参加者からいただきました資料代とカンパから、資料制作費用と会場使用料を差し引きました残りの28,900円を、今後の活動に使わせていただきます。どうもありがとうございました。

 当座の活動費用をプールするために、郵便貯金総合口座(記号10120、番号42319171 口座名“日中恊働『飢民』支援フォーラム”)を開設いたしました。振替口座については開設準備中です。また当面の連絡先は、ファックス:048−831−9512、電子メール:mtachiba@jca.ax.apc.org(橘)とさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。(事務担当:大島、橘)

 ●おわりに
 「北爆」の意図が迫るなか、我々はこの冬中国側から中朝国境に足を運ぶことができた。そして子どもを含む二百数十人の避難民に直接救援する方途を確立した。我々は十名ほどで「日中恊働『飢民』支援フォーラム」を結成した。覚悟ある人士の参集を求めたい。(医師 色平哲郎) 


日中恊働『飢民』支援フォーラム第2回公開報告会のお知らせ

  「日中恊働『飢民』支援フォーラム(以下「日中フォーラム」)」は、中国吉林省と遼寧省に国境を越えて流入してくる食料難民(中国政府の表現では「飢民」)に心を寄せ、子どもを含む越境者への医療・食料そして「魂のケア」についての支援を行うことを目的にして集まった、市民の集まりです。現在、日中フォーラムには、中国、韓国、日本の市民が集まっております。

 日中フォーラムでは、1999年1月に中国吉林省延辺朝鮮族自治州にて野口法蔵を団長とする第一回の現地踏査を実施、二百人規模の食料難民を直接救援することが可能ないくつかのルートを開拓して、帰国いたしました。今はまだ細いルートながら、これを生かして少しずつ直接支援の輪を広げていきたいと考え、各方面への働きかけや、小規模な説明会などを実施しております。

 そこで、今年2月に続いて第2回目の公開報告会を、下記の要領で開催することにいたしました。
 ご関心を持たれるみなさまのご参集を呼びかけます。

             

 日 時 1999年4月17日(土)午後6時15分〜8時40分
 場 所 エポック10(豊島区男女平等推進センター)
      豊島区西池袋1-11-1 メトロポリタンプラザ10F
      池袋駅西口下車3分 事務室Tel 03-5954-1015
          map
 内 容 ・現地報告(現地で撮影したスライドを交えて)
     ・討論 共感と支援の輪を広げるために
 報 告 野口法蔵(僧侶・日中フォーラム共同代表、新潟県)
     山田 修(日中フォーラム訪中団参加者、東京都)
          討 論 李 仁夏(イ・インハ=在日大韓基督教会・元老牧師、日中フォーラム共同代表、神奈川県)
     色平哲郎(いろひら・てつろう=医師・日中フォーラム共同代表、長野県)
 司 会 橘 雅彦(埼玉大学教員・日中フォーラム事務局長、埼玉県)
 主 催 日中恊働『飢民』支援フォーラム、ぐるーぷ・迎春花
 共 催 一日断食をする人々 from KOBE
 問合せ Fax: 048-831-9512 mtachiba@jca.ax.apc.org

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