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理念としての環境、農業そして五族共和

■■創刊1周年記念号■■

1999年01月10日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄



 北海道は「日本語が通用する格好の投資先」というのが、萬晩報の北海道独立論のきっかけだった。経済を中心に考えてきたが、国家建設には理念が不可欠である。経済的利益だけを共有する集団が長続きするはずもない。集団を構成する一人ひとりの情念に訴える何かが中核として欠かせない。もちろんリーダーシップも生まれない。そのことを議論したい。

 歴史上、宗教を求心力にした国家は多くあった。仮想敵国をつくり団結を強要した国もあった。ソ連は20世紀に社会主義という理念で国家統一を図った。銃口を背景にしながらも理念で国家経綸を図った国は初めてだった。アメリカは民主主義を標榜して超大国となった。ともに多民族を擁し連邦制という形態をとったが、ソ連は自由を認めず自壊し、アメリカはアメリカン・ドリームを生んだ。

 何が一番違っていたのか考えた。ソ連は平等主義を掲げながら不平等社会をつくり、アメリカ社会が初めから貧富の差を認めながら豊かな企業社会を形成した点ではないか。平等を目指した社会は結局、失敗に終わった。社会も生命体であり、栄枯盛衰を繰り返してきた。適者生存、弱肉強食という生命の基本を忘れた社会は長続きしない。半世紀近い東西冷戦の結果、われわれが学んだものはそれではないかと思う。

 そこで21世紀を展望して北海道に見えるものは何かという模索が始まる。金融や通信、製造業といった経済分野ではグローバル・スタンダードが勝利したことは1980年代後半からの歴史で証明された。世界的な度量衡の統一が、レッセ・フェール、言い換えれば弱肉強食という経済原則のなかで世界史上初めて成し遂げられようとしている。独立北海道も当然、グローバル・スタンダードの渦の中に巻き込まれるはずだ。

 ●オランダと西ドイツで生まれた緑の党
 環境というキーワードがいつ生まれたのか考えたことがあるだろうか。1989年、フランスのパリで行われたアルシュ・サミット(先進国首脳会議)の共同宣言でサミットととして初めて「環境と経済の調和」が謳われたのである。たった10年前のことでしかないが、1990年代を通じて政治経済のキーワードのひとつになり、ドイツでは緑の党が連立内閣を担うまでになった。

 サミットのその取材の最中「なぜ環境というキーワードが突如として浮上したのか」に聞いたことがある。外務省の欧州専門家の話によると、日本がバブル経済に酔っていた当時、ヨーロッパで「緑の党」が多くの国で国会の議席を確保しつつあった。勢いが強かったのはオランダと西ドイツだった。

 オランダは国土の多くの面積が海面より低い。勤勉さをもって古くから海岸に堤防を構築し、農地を広げるという地道な努力を続けてきた。この国では、大気中の二酸化炭素濃度が高くなり、地球温暖化が進行することは国土の喪失を意味していた。そんな中から環境問題を重視する緑の党の国会議員が多く生まれ、欧州連合(EU)によるヨーロッパ統合の議論にも影響を与えつつあった。

 もう一つの話は、西ドイツのシュツットガルトの森の酸性雨被害である。山の木々が酸性雨で次々と枯れつつあった。原因は石炭火力発電所が排出する硫化化合物だった。特にポーランドの古都クラコフにあった巨大な発電所群は、価格の安い泥炭を使用していたため、甚大な被害を近隣諸国にまき散らしていた。西ドイツで緑の党が勢力を拡張した発端のひとつが酸性雨問題とされているのだ。

 西ドイツにとって環境問題は東西の軍事対立並みの課題となっていたのである。環境問題の浮上は実は、ベルリンの壁の崩壊の遠因のひとつともされている。効率の悪い発電システムは東欧諸国にとっても甚大な健康被害をもたらしていただけでなく、西ヨーロッパ諸国にも被害を拡大させていたのである。

 ●目指すは天然エネルギー王国
 「緑の党」の存在は単なる環境運動ではない。環境問題が人類の生存と共生に強い関わりを持ち始めたという認識がヨーロッパではすでに根付いているのだと思う。残念ながら日本ではまだまだ、環境問題は「市民運動」の域を出ていなかった。

 だが環境を「資源」という言葉に置き換えるなら日本のいまでも十分に政治の重要課題になりうる。世界的な爆発的人口増への対応としてエネルギーと食糧問題は21世紀の人類生存に不可欠な課題となるであろうことは誰もが否定できない。

 1970年代初めのオイルショックが日本にもたらしたものは、自動車の燃費の大幅改善や家電製品の省エネである。日本製品が世界に対して洪水のような輸出攻勢をかけられたのは、実はこの省エネ技術によってもたらされていたのだった。省エネ対応という商品改良がひいては製品の高品質をもたらした。

 当時の日本人たちの努力は高く評価されていいものだと思う。だが、その後の日本のやりかたは固定観念に固まりすぎている。米スリーマイル原発やロシアでの原発事故への反省からヨーロッパではエネルギーの安全性の議論に移っていた。1985年からの原油の価格急落も背景にあったはずだ。にもかかわらず、日本では「原発こそが将来のエネルギー問題を解決する唯一の道」であるとの考えから脱しきれなかった。

 1980年代には太陽光発電など代替エネルギーの開発で世界の最先端を走っていたはずの日本は、代替エネルギーへの転換努力で一周遅れになっている。特に風力発電ではデンマークが世界をリードし、アメリカでも商業発電が大規模に始まっているのに、日本では通産省や電力会社の動きが鈍い。

 独立北海道では風力や地熱、太陽光エネルギーの開発に力を入れて、世界に先駆けて人々の普段の生活に取り入れられるような政策を強力に推進することを柱にしたい。

 ●経済原則から遊離した日本農業
 食糧問題も人類が21世紀に向けて克服しなければならない大きな課題だ。戦後日本農業の失敗は、小規模農地でも農業経営ができるよう努力したことだ。特にコメは経済原則から遠く遊離した作物となってしまった。野菜や果物も見栄えを重視するあまり、世界的にコストの合わない商品と化してしまった。もちろん世界との価格比較を日々難しいものにした背景にとんでもない円高もあった。

 もうひとつの欠陥は、化学肥料と農薬の大量投入で、農地そのものを破壊したことだ。農地の汚染は河川を汚し、その被害は生態系や人々の生活にまでおよんでいる。一部の篤志家が有機農業の必要性を叫んでも、農業改革のパワーになり得ていない。

 いまアジアで大規模営農が可能なのは中国の東北地方と北海道だけだと思う。特にロシア国境を流れる黒龍江流域は広大な未開発地があり、戦前に満蒙開拓団が入植し、広大な湿地地帯を大穀倉地帯にしよう夢見た。その努力は、いまも中国に引き継がれ、人口問題を研究するハワイの東西センターからも「将来の穀倉地帯」として注目されている。戦後も経済協力を通じて、この地域の排水など農地改良事業に新潟県の故佐野藤三郎氏らが尽力したことは記憶に値するべきことがらであろう。

 同様に石狩川流域の湿地地帯を農地に転換した北海道の先人たちの技術も「将来の穀倉地帯」の開発に役立つのだと思う。アジア農業の技術輸出拠点と位置付けることができるなら、北海道の農業にも光が差す。

 ●超越したい人種と民族間のあつれき
 こうして考えると「北海道建国」の理念としてふさわしい回答が「環境」であろうことは間違いない。将来のエネルギーと農業問題に回答を生み出すような国家づくりなら、誰もが夢を持つことができる。萬晩報はさらに「五族共和」も挙げたい。もはや国境というものが意味をなさない時代とはいえ、人種や民族間のあつれきを超越した国家はない。

 北海道は、日本、南・北朝鮮、ロシア、中国、アメリカに隣接する。1980年代後半からこの6カ国にモンゴルが加わった官民による「北東アジアフォーラム」(事務局・ハワイの東西センター)の議論が続いている。筆者はもちろん、豆満江流域に国境を越えた経済圏を構築しようとするこの構想に諸手を上げて賛成したい。

 戦前の満州国建国は、五族共和を理念として挙げながら日本が国益だけを最重視したため、つまずき、中国の反感を買う結果だけに終わった。だが、北東アジアフォーラムが目指すものはそうでなない。相互互恵の精神が底流にある。

 萬晩報はこの1年、「北海道建国」の理念について考え続けてきた。そして、たどり着いた結論が「環境」と「五族共和」である。北東アジアフォーラムの構想実現にはまだまだ時間がかかる。北海道でその理念を先行させて実現するという発想はどうであろうか。

 五族共和に関しては、1998年03月08日付萬晩報「北海道に託す新五族共和の夢」http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9803/980308.htm」で一部書いた。

 アメリカが民主主義を理念として、その分身を世界に広げていったように、北海道建国で打ち上げた理念が100年かけて、アジアに広がるという風景を想像することは1999年の初夢として悪くない。

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