大蔵省による金融検査が、汚職の温床になっていた事件は国民の間に官僚不信をますます膨らませている。日本の役人による「検査」の実体を、筆者が書いた1995年4月の共同通信の配信記事をもとに紹介したい。日時は1995年、肩書きは当時のものである。
●日本産ホタテ貝柱のEU禁輸騒動/衛生管理で責任回避●
「日本の食品加工場の衛生状態は韓国やマレーシア以下だ」−欧州連合(EU)は日本産のホタテ貝柱に貝毒が検出されたとして、日本産の水産食品を全面禁輸にした。日EU間に新たな貿易の火種が浮上したかにみえた。しかし"事件"の解明に従い、事態は逆に日本政府や自治体の衛生管理能力が問われる様相に変わってきた。
●これはいったい何だ●
EUの調査団3人による青森,宮城、神奈川の6カ所の加工場の査察日程は3月27日から31日だった。事件は28日、青森県内のホタテ工場で起きた。工場責任者が施設の概要や原料の仕入れ先など説明を一通り終えた後、調査団は3班に分かれて工場に入った。EU査察官の指示で、従業員が冷凍貯蔵庫の奥から運び出した段ボール箱を開くと、フランス語で「1990年4月10日冷凍、賞味期限92年4月10日」と書かれた袋が出てきた。中には1キロのホタテ貝柱が入っていた。釈明の余地はなかった。
「これはどういうことだ」。厳しく迫るEU査察官の声に工場内に緊張が走った。他の場所を調べていたチームも集まってきた。工場の専務は「余った袋がたくさんあってもったいないので、借りの容器として使った。中身は古くない」と釈明したが、査察官は納得しなかった。
それだけでは納まらなかった。従業員が鍵をかけた別の冷蔵庫について「国内向けの製品しか入っていない」と開閉を拒否したため、EU側の心証はさらに悪くなった。査察官はその場で査察を打ち切って帰国した。
●始まった責任のなすり合い●
EUが日本産水産食品の禁輸措置を決めたのは10日後の4月7日だった。あまりに早い決断だった。不意打ちを食らった水産庁など日本側は「事前に知らされなかった」と反発した。
数日後にEUの官報に公表された査察結果は「施設、設備、衛生管理すべての面でEUの基準を満たす工場はひとつもなく、落胆した」との内容だった。欠陥工場の烙印を押されたも同様だった。報告書はさらに「厚生省を含め衛生状態を保証した当局の監督責任体制のずさんさ」も厳しく指弾した。
政府は当初「衛生管理上、問題があったとは思っていない」(鶴岡農水事務次官)と強く反発したが、しばらく経つと「こちらも改善しなければならない点が多々あるようだ」(井出厚相)と急速にトーンダウンした。
しばらくすると厚生省内から「韓国などは輸出を念頭にEUの基準をきちんと守っているのに、日本の中小業者はそうした意識がない。恥ずかしいよ」などという発言が飛び出した。
青森県も査察前に二度にわたり認定工場の立ち入り検査を実施したにも関わらず「水揚げから加工まですべてに立ち会うわけにはいかず、業者のデータを信頼せざるを得ない」(県生活衛生課)と早くも責任回避に走りだした。
●検査とは「書類を調べる」こと?●
1990年までフランスにホタテ貝を輸出していた青森市の水産会社社長は「自治体の指導を遵守してきたのに」と経緯を説明し、「青森の工場が不衛生というなら、他の日本やフランスの工場のホタテ貝工場は全部だめだ」と怒りを露わにした。青森県は業者に「査察に備えて書類をそろえろ」と指導したが、査察官は書類などには見向きもしなかった。代わりに消毒を怠った水洗場の井戸水の水質を検査し、冷蔵庫の中味を調べたのだった。
査察の経過や日EU双方の言い分を取材するうちに疑問点として浮上してきたのは「法令などによる基準は厳しくても曖昧な運用」をしてきた日本的衛生管理だった。
そして明らかになったことは、業者にとっての「検査」とは「書類をそろえる」ことであり、県生活衛生課にとっては「書類を調べる」ことだったのだ。 つまり書類に不備がなければ、ほとんどの場合「合格」となる。これこそが「偽りのリアリティー」ではないだろうか。
日本側の方を持つわけではないが、輸出市場での検査はどこの国でも「内国向け検査」とは桁違いの厳しい基準を設けている。「衛生」を理由とした輸入制限はWTO(世界貿易機関)違反とはならないからだ。日本も、米国の食肉業者に「工場内の壁と床の境目は直角だと掃除がしにくい」など子供じみたいちゃもんを付けたことがあるそうだ。だからこそ、輸出国は、輸出商品の衛生管理に異常なまでに気を使っている。「マレーシア以下だ」というのはそういう意味である。
地下鉄サリン事件を契機に日本の安全神話が崩壊したが、衛生神話も崩れた事件であった。
トップへ 前のレポート 次のレポート
|