HAB Reserch & Brothers

ギレンベ−斉藤さんのアフリカの桃源

1998年01月29日(木)
共同通信社経済部 伴武澄

 2年前、欧州出張の帰りに休暇をとってギニアを旅した。神田の印刷屋をやっていた友人の斉藤清さんが突然、店をたたんでギニアに赴いたのは5年前。青年時代のギニアに対する思いが中年の心を揺さぶり、今では砂金掘りの“山師”になった。誰も遊びにきてくれない。インマルサット(衛星電話)で「来てくれ」との催促が何回もあった。

 いつかは行こうと思っても日本からだと現場のキャンプまでは最低、片道3日かかる。現地に3日滞在すると10日間の旅になるから、やはりおっくうになる。それにアフリカに行くとなると黄熱病やらコレラやらたくさん予防注射も必要で、第一どこでマラリアの予防薬、キニーネを入手していいかも見当がつかない。ままよ、とブリュッセルからセベナ航空に乗った。

 かつてのアジ東南アジアと同じく、ギニアがアフリカのどこにあるかを知っている日本人にまずいない。筆者自身もそうだった。北は、パリ−ダカ−ル・ラリーの終点国セネガルに接し、南はシエラレオネ、リベリア、コートジボアール(象牙海岸)。東北には砂漠の大国マリーが控える。

 そのキャンプはマリー国境に近いギレンベという村にあった。ジャングルではない。かといって草原でもない。たおやかな丘陵が続く緑の高原地帯で、近くを西アフリカ随一の大河、ニジェール川が滔々と流れる。雨期には水浸しになった平地に背丈ほどの葦が一面に生え、乾期にはその葦も枯れてまっ茶色の世界に一変する。

 ●砂金堀りが農閑期の最大の仕事

 ギレンベへは、首都コナクリからカンカンという地方都市まで飛行機で約一時間飛び、さらにサファリ・ロードを北に200km、7時間の旅。川を渡り、泥濘をいく度か越えるとたどり着く。スコールが降るとラテライト色の道路は川に変身する。四輪駆動車でも何度か立ち往生した。

 住民はマリー系のマリンケ族といい、アラブの血が混ざる回教徒だ。トウモロコシを主食にいまだに焼畑農法を伝える。ギレンベには干乾しレンガでできた茅葺きの円形住宅が点在する。最近、フランスの業者による綿花の栽培が始まり、ようやく換金作物の存在を知った。ボイバイジャン村長に村の人口を問うたが、首をひねった。「50戸、300人程度じゃないか」とこちらから誘導すると「そんなもんだろう」という。戸籍などないから誰も正確な人口を知らないし、興味もない。キャンプにはディーゼルエンジンの自家発電装置と通信用のパラボラ・アンテナがあるが、村には電気もガスもない。

 さて砂金の話に移る。ニジェール川の洪績台地はどこでも10mも掘ると上流の金鉱山から流出した砂金の層に突き当たる。マリンケ族の農閑期の最大の仕事は砂金掘りだ。男たちは直径1mほどの穴を縦に掘り、さらに横に金脈に沿って掘り進む。女子供はその土砂を川で洗う。やがてゴマ粒より小さな輝きが現れる。集めた砂金は中央銀行で換金してくれる。

 品位の高い金脈が発見されると数週間であたりに数千人規模の集落が生まれ、砂金が掘り尽くされるとその集落は跡形もなくなる。殺気だった殺傷事件も起きる。どうも有史以来続いてきた風景らしいが、ブラジルの砂金騒動のようには報道されてこなかった。1000年ほど前にこのあたりに成立したマリー王国は現在のギニア中央銀行の役割を果たして繁栄したという。

 ●寄生虫と闘いながら大規模な砂金堀り

 斉藤さんの狙いは、そこに大型のパワーシャベルと洗浄機械を導入した採掘手法を取り入れることだった。「ギレンベの金の品位は南アフリカの金鉱の数分の1だが、2000mも3000mも掘る必要がないため十分コストが合うはずだ」という。

 事業化の前、1990年から1991年にかけてギレンベ周辺で1000本の試掘井を実施した。結果、1トン当たり数gの金が出た。南アフリカの金鉱山は1トン当たり2g程度だから、品位はほぼ同等とみていい。掘る深さを考えれば大変に有望な金鉱脈ということができる。ちなみに世界最高品位の鹿児島県菱刈山鉱山は1トン当たり20-30gというとてつもない金鉱脈なのだ。

 エンジニアや労働者約100人を集めて、2年前から本格的な操業を始めた。まだ試行錯誤が続いているが、近代装備がフル稼働すると年間1トンの金が採掘できる計算だ。金の伸べ棒にして100本。金額で10億円になる。運がいいと10gの金のかたまりを発見したり、ダイヤモンドなど宝石類が見つかることもある。

 日本人は斉藤さんと25歳になる刀沢と名乗る青年の二人きりだった。現在は幹部用の宿舎もできたため、衛生的な衣食住には困らなくなっているが、去年の春まではギレンベ村の円形住宅に住み、泥水を沸かして飲んだ。マラリアには何度か冒され、名前も知れないの寄生虫の恐怖に苛まれた。世界一のGDP国に育ったこの青年は何度か「逃げ出そう」と考えたが、まさか歩いて逃げ出すわけにもいかず、何カ月かいるうちに「こんなものかな」と思い出した。斉藤さんは青年時代にこの国で過ごした経験があるだけに、そんな生活もまったく意に介していない。

 ●ギニア第二の開眼

 斉藤さんがギニアと関わりを持つのは20年前の鉄道敷設のための測量調査だった。技師だったわけではないが、得意のフランス語が買われて12人の仲間とともに2年間、ギニア各地を転々とした。現在のギニアは当時とほとんど変わっていない。1980年代に火が付いた東アジア的経済発展のうねりは西アフリカには届かない。

 帰国後に始めた神田での印刷業はそれなりにうまく回転していたが、斉藤さんの胸のうちには何ともいえぬ空虚さがあった。当時の仲間とギニアの写真集を編集する話が持ち上がり、ギニア大使館を訪ねた。政府も企業もだれも相手にしなかったギニア大使館への“賓客”をもてなしたのはベンガリ・ダボ大使(当時)。母国の経済的窮状を訴える大使の熱情に打たれて斉藤さんは「ギニア第二の開眼」を果たす。

 直ちに、別会社「ボンサンテ・ジャパン」を設立してギニアの健康茶「ケンケレバ」の輸入販売やギニア・ツアーの企画などを手がけるが、あまりうまくいかなかった。砂金の機械掘りはダボ大使が帰国後に持ちかけたものだった。400平方km、東京都ほどの面積の採掘権を譲るというのだ。10億円の資金が要る。「ちょっとずるかったけれど、マスコミを使ってギニア大使が資金協力を訴えているという記事を書いてもらった」。効果は抜群だったが、興味を示した人たちは「みんなギラギラしすぎていた」。やがて10億円を出資するという上場企業の社長が現れて斉藤さんのプロジェクトは本格推進することになる。

 ギレンベに入植してまずやったことは村のための井戸掘りだった。井戸が3本できて、村民はきれいな水をふんだんに使えるようになった。現在、診療所を建設中。医者はいないが、セオギ・キャンプには獣医がいる。キャンプで働く労働者の多くはギレンベの男たちだ。村始まって以来の現金収入の道が開かれたわけだ。キャンプの電灯の下では夜遅くまで子供たちがサッカーに興じていた。

 斉藤さんとともにギレンベ入りのは8月の初めだった。斉藤さんにとって3カ月ぶりの帰宅だった。車のエンジン音を遠くから聞いたのか、子供たちが集まってきて「ニケ、サイトー」と手を振った。ギレンベに足を踏み入れて足かけ5年、数100km四方でこの東洋人の名前と顔を知らないものはいない。

 雨期に入り、8月に操業は一時ストップしていた。激しい雨の合間に見せるアフリカのすずやかな緑を眺めながら「別に砂金でなくともよかった。ただここにいると一番落ち着くのですよ」と笑う。砂金掘りを採算ラインに乗せるにはまだまだ課題が多いが、ここギレンベは団塊の世代が40歳後半にしてたどりついた桃源郷なのだ。




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