ガンディーとボース

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ガンディーとボース

2010年09月15日(水)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
 最近私は夜テレビでガンディーの映画をみた。映画は前世紀の80年代に封切られたが、当時見そこなう。3時間以上も続いた映画を見終わった後、私の悪い癖でテレビを消すことができずにグズグズしていると、その晩インド特集らしく、インド独立運動闘士のスバス・チャンドラ・ボースのドキュメンタリー映画がはじまる。

 ガンディーも、ボースも、また独立インド初代首相ネールもインド国民会議のメンバーであり、独立運動指導者であった。「敵の敵こそ味方」という原則にしたがって、スターリン、ヒットラーそして日本と組んで武力で祖国インドを解放しようとしたボースほど、非暴力のガンディーと対照的な政治家はいない。見ていると、自分が無知だったかもしれないが、日本と縁の深いこの政治家について今まで知らないことを勉強できた。

 ●ドイツとの絆 

 その一つは、ボースがヒットラーの支持をとりつけようと画策したことは知っていたが、彼が私的にドイツと特別な関係にあったことを、私は今回はじめて知る。彼は1934年にウィーンでそこに住む女性と知り合い、1937年にザルツブルクの近くの山村で結婚式まで挙げている。彼が何度もドイツを訪れたのは、配偶者がウィーンに住んでいたからで、1942年にそこで娘が生まれる。このボースの娘アニータ・パッフは経済学者で、アウグスブルク大学の先生をしている。

 次に面白い点はヒットラーとチャンドラ・ボースの関係である。有色人種のインド人が白人国家・英国の植民地支配を打倒して独立することは、ナチの人種主義的「世界秩序」に反する。だからヒットラーはインド独立運動の支援に乗り気でなく、ボースはヒットラーに一度しか面会を許されていない。ボースに亡命仮政権の樹立を許可しなかったことも、インド国民に独立の約束をあたえなかったのも、このようなナチの人種イデオロギーがその理由である。

 当時ボースは、ドイツ軍の捕虜になった英軍インド人兵士をインド独立のために戦うように説得した。こうして組織された部隊に対してドイツ側は「インド国民軍」という名称をつかうことを許さず、「インド部隊」とよばれて、組織上での扱いは英仏の植民地住民からなる部隊と変わらなかった。

 ●ぼやかされる日本の役割

 ボースは1943年2月9日にキール港を出発。独日の潜水艦を乗り継いで来日した。アジアでチャンドラ・ボースは、自由インド仮政府を樹立する。この独立インド政府は枢軸国とその友好国から外交的に承認された。またボースは、日本軍捕虜になった英軍インド兵や、またアジア在住インド人を組織して、4万5千に及ぶ「インド国民軍」を創設した。

 こうして欧州で実現できなかったことが、ボースにアジアでは可能になる。そうであったのは、日本人自身有色人種で、ナチ人種主義イデオロギーに共感を覚える人があまりいなかったし、また日本にはナチとは別の政治目的があったからである。

 ところが、ドキュメンタリーではこの点がはっきり表現されない。そうであるのは、欧米、特にドイツですっかり定着してしまった奇妙な第二次大戦史観のためで、この史観によると、ナチのユダヤ人大量虐殺は絶対悪で、ヒットラー・ドイツとその友だち(例えば日本)は絶対悪を実行した絶対的犯罪者もしくは共犯者であった。そのような立場にある日本が何か肯定的なことをしたことに、(この場合は)インド独立運動を助けたことにふれると、共犯者を部分的に肯定することになり、それが絶対悪の相対化につながるとする。このドキュメンタリーでも日本がした肯定的なことがことがぼやかされるのは、灰色を認めようとしない白黒史観のお陰である。

 次にドキュメンタリーのなかで知らされるのは、1944年3万5千名に及ぶ「インド国民軍」と日本軍の部隊がビルマからインド北東部アッサム地方攻略しようとして英軍によって撃退されたことである。ドイツ人視聴者は、主にインド人兵士が英軍と戦い、日本兵は同伴しただけのような印象を得るかもしれない。いずれにしろ、インド兵の行動が9万の日本兵も参加した「インパール作戦」とよばれるより大きな軍事行動の一部と考える人はいない。

 日本人のなかには多数の兵士を無駄死にさせたこの無謀で無責任なこんな作戦のことなど忘れたいと思う人が多いかもしれない。とはいっても、数万人の日本人が命をうしなったこの軍事行動が存在しなくなるのも何かやりきれない話である。

 ●私たちも勝利に貢献

 ここで私は、かなり前にベルリンで開催された「第二次世界大戦下の第三世界」(→http://www.3www2.de/)という展覧会を思い出す。主催者は有色人差別に反対する人々の団体であった。彼らの見解によると、第二次世界大戦というと、私たちは「英米ソ・連合国vs日独伊・枢軸国」の戦争であったと思いがちである、ところが、アフリカ人やアジア人などの有色人種も従軍し、ナチ・ファシズムを打倒して欧州を解放するのに偉大な貢献をした。この展覧会の目的はこの事実を知らせ、また思い出させるためであるという。

 ところが、この意図を実現することになった歴史家グループは、有色人種のなかには連合国に味方するだけでなく枢軸国に協力する人もいたことも指摘することにして、そのためのパネルも多数展示した。ところが、そのなかにアラブ人の反イスラエル感情がナチの反ユダヤ主義の踏襲であったことを暗示する展示物があった。これに対して主催者は、アラブ人をナチと同列にあつかうことが展覧会の趣旨に反すると非難した。

 これがきっかけで、ナチ・ファシズム打倒に対する貢献度を尺度にして、有色人の役割を肯定的に評価したい人々とそうでない人々の間で論争開始。後者グループに属する有名なドイツの歴史家がガンディーを「ヒットラーの協力者」とよんで、前者の人々を憤慨させたという。ヒットラーに対して断固と戦わないで妥協した人は宥和主義者として批判されるが、この論理にしたがえば、非暴力主義者でヒットラーに対して武器をもって戦わないガンディーも間接的に枢軸国を応援したことなる。

 このような議論は、すでにのべた第二次世界大戦観を利用して、自分の政敵を絶対悪のヒットラーに近づけようとしたり、反対に自分の味方に鉄砲を担がせて連合国の旗の下に馳せ参じさせて評判をよくしようとしたりする試みである。歴史を自分の都合のいいように利用するだけの人々に、いつものことながら、私はあきれるしかない。

 でもこのような雰囲気のドイツのメディアで、ヒットラーや日本と手を組んだチャンドラ・ボースが「思い出す」のに値するものとして公共放送でとりあげられることじたいが、例外的であるかもしれない。また彼と日本との協力関係がぼやかされるのも、しかたがないことにもなる。

 インド人は、この第二次世界大戦を単純化する欧米人の史観を共有していないようだ。そのためにチャンドラ・ボースはインド独立の「ネータージー(指導者))」として尊敬されていて、父の祖国を訪れる娘のアニータパッフが大歓迎される場面がドキュメンタリーのなかで何度もでてくる。このような場面は、ドイツで暮らし欧米人の大政翼賛会につきあわされている私には新鮮に感じられた。

 ●ボースの「国民軍」

 チャンドラ・ボースのドキュメンタリーで勉強になるもう一つの点は、彼が重視し実現しようとした「国民軍」である。周知のように、インドにはや宗教、人種、地域性の相異、またカースト制度といった具合に人々を分け隔てするものがたくさんあり、これらの要因は国民意識の共有を困難にする。

 ボースは、ドイツでインド軍部隊を創立するにあたってこの点を留意して軍隊内に宗教的寛容を取り入れるなどして、(ナチからその名称をつかうことこそ許されなかったが、)本当の意味での「国民軍」を組織することに成功したといわれている。 

 英国は、人種、宗教、地域の相異で分かれている集団を互いに反目させたり、争わせたりして、インドを長期的に支配することに成功した。このような植民地支配に対して、ガンディーよりチャンドラ・ボースのほうがより有効に対抗できたのではなかったのか。というのは、共通の敵をもち、そのために国民軍を創設するほうが、非暴力主義より、国家成員相互のきずなを強化するのにずっと役立ったと思われるからである。

 残念なことに、ボースは日本の敗戦後飛行機事故で死んでしまう。英国によるインド植民地の「分割支配」は終了後も成功し続けたというしかない。というのは、インドは独立した途端はヒンドゥー教徒のインドとイスラム教のパキスタンに分裂してしまったからである。周知のように、この対立は今も衰えることなく継続している。   

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