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ワルシャワ蜂起とポーランド復興

2010年02月16日(火)
萬晩報通信員 山本 渉
 昨年の夏、ワルシャワに新しくできたワルシャワ蜂起の博物館をみる機会があった。ワルシャワ蜂起は、1944年8月旧ソ連軍がナチスドイツに対して攻勢に立ってワルシャワの近く10キロのところに迫ったときポーランド人がナチスドイツに対して蜂起したものである。

 占領下のポーランドは、旧ソ連によるナチスからの開放は好まず、自力開放にこだわった。旧ソ連軍がワルシャワのビスツーラ川の対岸に迫った時、旧ソ連軍や他の連合国による支援を期待しながら、ロンドンの地下政府からの命令でワルシャワの地下軍組織(Home Army)がナチスに対して攻撃を開始。しかし、旧ソ連軍は残酷にもそれには答えず、対岸で待機しその蜂起を見物することにする。結局ナチスに対して90日間文字通りの死闘を尽くすが10月にはほぼ全滅し、20万人が殺害されたといわれている。そして、旧ソ連軍は1945年1月になって初めてワルシャワに攻め入ることになるのである。その間にナチスドイツはワルシャワの街を徹底的に破壊している。

 私が初めてワルシャワ蜂起のことを知ったのは、60周年を記念して2004年CNNが特集を組んだ時だ。ルーズベルト大統領はポーランドを救おうとして空軍による支援を提案するがソ連の空軍基地を利用することができず断念。またチャーチル首相は西部戦線の状況からその余裕がないと拒否してしまう。番組最後のメッセージは、ポーランドにとって第ニ次世界大戦は1989年まで終わらなかったというものであった。1989年まではソ連の支配下にあったポーランドでは、ワルシャワ蜂起の事実を学校で教えることが禁止されており、ワルシャワの街にその銅像が立ったのも1990年以降である。

 考えてみたら、日本はアメリカに対して太平洋戦争を挑んで敗れるが、第二次世界大戦のヨーロッパにおける戦勝国はアメリカやイギリスではなく、ソ連である。ソ連は大戦で領土を西方に伸ばしただけでなく、一気に東ヨーロッパを支配下に置いた。ヤルタ会談でチャーチルとルーズベルトはスターリンと握手するが、これはスターリンが戦後行った悪政を考えると、ヒトラーと手を結ぶ以上のことだろう。ポーランド人にとっては希望が断たれた瞬間だったであろう。第二次世界大戦の最大の戦闘は独ソ戦におけるウクライナのクルツクの戦いで旧ソ連は約20万人の戦死者を出したといわれている。とにかく勝つために犠牲を恐れない気迫は、西側諸国の比ではないだろう。ベルリンを陥落させたのは他でもないソ連である。

 ポーランドは、1999年待望のNATOに加盟。その後2004年にはEUに加盟する。経済成長も順調で、経済危機の影響も比較的小さい。ワレサ元議長は、ポーランド国民に対して今が建国以来最高のときであり今を楽しむように呼びかけている。

 そして2008年8月ロシアはグリジア侵攻。その直後ポーランドは、アメリカの弾道ミサイル迎撃システム配備を正式に承認する。EUに加盟しても第二次大戦ではイギリスにも裏切られており、まだ怖くて仕方がない。ロシアはリトアニアとポーランドの間にカーニングラードという飛び地を持っており、ポーランドのミサイル配備に対抗して欧州向けのミサイルを配備する計画を発表。ロシアは歴史的に大きくなったり小さくなったりしており、大資源国ウクライナをそのまま諦めるとは思えない。南オセチアとアブハジアに軍事基地を建設する計画だ。しかし、オバマ政権は、ロシアとの関係改善を掲げ、軍縮政策。ポーランドのミサイル配備計画を白紙撤回してしまう。そんなオバマ政権はポーランドでは当然人気がない。

 ふと日本を見ると、アメリカと普天間基地問題でもめている。ロシアに対しては北方領土返還。アメリカの核傘下にいるから極東の島国日本は安全に見えるのだろう。でもこれは修羅場をくぐってきたポーランドからみれば子供が「今日はこの服を着たくない。」と駄々をこねているだけにしか聞こえないのではないだろうか。

 山本さんにメール mailto:wyamamoto99@hotmail.co

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