賀川豊彦記念・松沢資料館館長の加山先生による「大宅壮一の賀川豊彦素描』の連載が始まった。
大宅壮一(一九〇〇[明治三三]年〜一九七〇[昭和四五]年)は大正から昭和にかけて、ことに戦後日本において、多面的な評論活動を展開し、広く社会的イ
ンパクトを与えたジャーナリストであった。「駅弁大学」、「一億総白痴化」、「「太陽族」、「恐妻」、「虚業家」、「口コミ」、「ミニコミ」、「緑の待
合」等々、大衆の耳目をとらえる造語を次々と製造し、時代の現象を実に的確に表現して、風刺したり警告したりする才能にかけては、他の追随を許さなかっ
た。「マスコミの帝王」と呼ばれたゆえんである。大宅の没後に設立された大宅壮一文庫は賀川豊彦記念
松沢資料館から徒歩一五分ほどの、世田谷区八幡山にあり、マスコミ関係資料の一大センターとして、多くの利用者が訪ねている。
大宅壮一が社会評論とともに、幅広く手がけたのは人物評論である。政界、財界、学界、思想、芸能、ジャーナリズムなど、生涯に取りあげ、料理した人物の数
はゆうに百人を下らないのではないか。
大宅壮一を編集責任者として昭和八年三月に創刊された月刊誌『人物評論』(人物評論社)において、「人間、人間、凡
そ人間に関するものでありさえすれば、僕は何にでも興味をもち、関心を有し、魅力を感ずるものである。僕のこれまでの仕事も、九○パーセントまでは、直接
または間接の人物評論であったといっても、あえて過言ではない。」(「創刊の辞」より)とさえ述べている(一九九六年、不二出版より復刻)。大宅壮一の連
載対談『人物料理』(『週刊文春』昭和四〇〜四五年)に収められた人物だけで田中角栄、宇都宮徳馬、福田赳夫、宮沢喜一、黒川紀章、司馬遼太郎、三島由紀
夫、吉永小百合など五二人を数える(『大宅壮一全集』蒼洋社、昭和五七年、一五巻)。自らの妻大宅昌についても、「野次馬評論家を圧倒。猛妻賢母=vと
して同書で紹介している。
大宅壮一の評論は毒舌で知られたが、その人物評論にはユーモアや暖かさも見られる。しかし、偽善や権威主義にたいしては容赦なく
批判し、パロディ化した。多くの知識人たちがそうであったように、彼も社会主義、ことにマルクス主義に共感してきたが、戦時下や戦後に多くの知識人たちが
時代に迎合して転向・再転向してゆくのを見て、戦後、特定の思想やイデオロギーに立つことを拒否する「無思想人宣言」(昭和三一年)を発表している
(『「無思想人」宣言』講談社、昭和五九年)。
「その後私は、いかなる主義主張にも同調しなかった。私は私流に生きていくほかはないと考えた。終戦直後、 民主主義と共産主義の大ブームがこの国に訪れた。私にそのほうの実績が多少ないでもないので、多くの進歩的≠ネ思想団体から参加を勧誘された。だが私は どこにも属さないで、戦時中からの農耕生活を戦後もずっとつづけていた。」(同書一二〇頁) 戦時下、多くの文化人が戦争協力にかり出されたように、彼も また、満州やジャワなどに出かけているが、帰国後、一九四四年から一九四八年ごろまでの数年間、八幡山で農業を営みつつ、思索を深めていった。
続きを読む
|