●迷児たちを諷刺した横山大観
5月20日発刊の拙著『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』は、それまでに私が書いていた原稿をぎゅぎゅっと圧縮して詰め込んだものとなっており、すでにネットで発表を終えた「隠されたクスノキと楠木正成」以外にも膨大な未公開原稿があります。これをエピソード集として順次紹介させていただきます。ところで、『隠された皇室人脈』及び「隠されたクスノキと楠木正成」をお読みいただいた元総務省CIO補佐官の大塚寿昭様から、次のようなご意見が寄せられました。大塚様は、今のところ拙著に登場するタヌキとキツネの隠された意味合いに気付いた唯一の方でもあります。
「十字架や十字架にかかったキリスト像などは、本来の日本人の皮膚感覚や直感からは違和感を持つのが当たり前に思えるのに・・・。何故当時の日本人、しかも皇室周辺にいたエリートたちでさえキリスト教を受け入れたのか?!私はそこに急速に壊されていく神道、国家神道の台頭に反発する感覚があったのではないかと思っています。」
急速に壊されていく神道、代わって台頭してくる国家神道への反発というより、空疎な国家神道の枠中に神道も仏教も取り込まれた時点で宗教的敗北となり、もはや弱者をひきつけるほどの魅力などなかったのかもしれません。
最初の迷児は明治維新の敗者たちでした。勝者たちが牛耳る薩長藩閥政治に、宗教界の混乱が追い討ちをかけていく中、新たな迷児がどんどん生まれ落ちていきます。迷児の中には、「学問で大成するしかない、そうだ、外国語を学ぼう」と前向きに立ち上がる人も出てきます。新渡戸稲造もその中にいました。彼らの前に現れるのが、海外から来たキリスト教宣教師です。迷児にとって、生涯を信仰に捧げる宣教師の生き様が光り輝いて見えたのではないでしょうか。
水戸学の立場から当時の様子を諷刺した絵が残されています。作品名はずばり『迷児』。水戸藩藩士・酒井捨彦の長男で近代日本画壇の巨匠と称される横山大観の一九〇二(明治三五)年の作品です。迷児を取り囲むように孔子、釈迦、聖書を手にしたキリスト、老子がいます。四聖の中でもひときわ目立っているのがキリストだとわかるでしょう。
▼横山大観作『迷児』
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もしも、当時の神道界や仏教界に「確固不動の信念」を貫く弁慶のような宗教者がいれば、歴史は大きく変わっていただろうと思います。しかも、終戦後の混乱の中にあって、真っ先に立ち上がったのも外国から来た弁慶でした。
それでは、エピソードTは「弁慶のような荒法師」を取り上げることにしましょう。興味深いのは、弁慶とフランスから来た「弁慶のような荒法師」が、いずれも「確固不動の信念」だけではなく、道化的なトリックスター性も併せ持っていたことです。これが「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながる重要な要素となっていました。
■昭和天皇と木下道雄
『隠された皇室人脈』の主役の一人である木下道雄は、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省入省、岡山県で地方勤務を体験し、内閣書記官となる。二四(大正十三)年夏、摂政であった東宮殿下(後の昭和天皇)の侍従にと声がかかり、東宮事務官兼東宮侍従に転任、一九二七(昭和二)年に侍従兼皇后宮事務官に就任するが、一九三〇(昭和五)年四月に宮内大臣官房秘書課長に転じ、天皇側近からいったん離れる。以後総務課長、内匠頭、帝室会計審査局局長を歴任する。
終戦後、木下が再び昭和天皇の側近として侍従次長兼皇后宮大夫に就任したのは一九四五(昭和二〇)年一〇月二三日。しかし、わずか半年余りが過ぎた翌年五月三日に辞任する。以後、宮内省御用掛を経て、皇居外苑保存協会理事長として皇居前の整備に尽くした。
木下は昭和天皇が最も信頼していた人物とされるが、皮肉にも昭和天皇の意向を受けて女官制度改革に手をつけたことが、貞明皇后の逆鱗に触れ、辞めざるを得なかったと伝えられている。
実は、『隠された皇室人脈』の第五章で、靖国神社を「長州の護国神社のような存在」とバッサリ切り捨てた田中清玄を取り上げたが、この清玄が終戦直後の一九四五(昭和二十)年十二月二一日に昭和天皇との拝謁を許されたのは、木下の推薦があったからだ。木下は「週刊朝日」に掲載されていた清玄の記事を昭和天皇に紹介し、許しを得ていた。ここで清玄は共産党に戦わんとする気構えを「七生報国」として誓う。ここでもまだ楠木正成が生きていた。
この木下の昭和天皇への忠誠心は並々ならぬものがあった。一九四六(昭和二一)年一月一日に発せられた「人間宣言」の作成過程で、天皇を現人神としてみる神格化表現が入っていないとして猛烈に怒り、内閣と文書のやりとりまで行っている。木下もまた「七生報国」の心構えだったのだろう。
日本人なら誰もが知っておくべきエピソードと信じ、木下が見た昭和天皇の「鹿児島湾上の聖なる夜景」を『隠された皇室人脈』に収録したが、この二人の交流を示すエピソードも紹介しておきたい。
木下の次男・公雄の戦病死の報せが届いた時、「御野菜、御菓子料」が昭和天皇から届けられる。一九四六(昭和二一)年五月十八日、お礼に参上すると、慰めの言葉とともに「何もないから少しだけれども」とお菓子を渡される。このお菓子は、皇后自らが渦巻蚊取線香の空箱を半分に切り、千代紙を張って作った小箱に詰められた小さなそばまんじゅう二つ、両陛下の昼食の代用食として出されたものを一個ずつ取り分けていたものだった。
五月二六日には退官の記念にと昭和天皇愛用のインクスタンドとペンが手渡された。木下は謹んで受け取るが、おそらくあふれる涙のためか、ペンを落としてしまう。拾ったらまた落ちた。それを昭和天皇が拾ってくれた。この時のペンはその日昭和天皇が使っていた黒インクの跡を残したまま、木下家で大切に飾られたという。
木下が宮内省御用掛の寺崎英成らとともに『独白録』の作成にかかわったことはよく知られているが、昭和天皇聖断拝聴録を『側近日誌』(文藝春秋)に書き残したのも木下である。ここにある「宗教心を培って確固不動の信念を養う必要がある」との昭和天皇のお言葉について、日本人なら誰しも宗教心とは神道だと思うだろう。何としてもそう思いたい。結びつけたい。その気持ちはわかる。
しかし、『隠された皇室人脈』に書いたように、この宗教心にはキリスト教も含まれていた。これをもう少し掘り下げてみよう。実は弁慶が深くかかわっていたのだ。
■弁慶のような荒法師ことフロジャック神父
木下道雄は侍従次長を辞めた後、敬虔なカトリック信徒になっていた。洗礼を与えたのはヨゼフ・フロジャック神父である。
財団法人慈生会の設立者として知られるフランス人神父のフロジャック神父は、一九〇九(明治四二)年に来日、戦前から乳児院、結核療養施設、診療所などを建てて社会事業に貢献していた。日本語巧みで胸まで伸びた真っ白いヒゲが特徴だった。
木下は、幼友達の妹がフロジャック神父の下で働いていた関係で、噂だけは聞いていた。村から村へと布教の旅を続ける神父が、足に大きな裂傷を負った際、近くの農家から針と糸を借りて、自分で縫い合わせたという話を聞いて、「フランス人にも、こんな弁慶のような荒法師がいるのかと、一種の親しみを感じた」と語っている。この親しみとともに、フロジャック神父の名前が木下の記憶に刻まれた。
宮内省総務課長時代、陛下からの推奨金推薦先として財団法人慈生会の前身にあたる「ベタニアの家」の名前があがり、木下の記憶によれば、三二(昭和七)年の暮れに弁慶の元を訪ねる。ここで二人は初めて出会い、事業も評価され、フロジャック神父には推奨金五千円が与えられることになる。
本格的に二人がかかわり出すのは、侍従次長時代の四五(昭和二十)年十一月二五日、この日の夜にフロジャック神父は木下宅を訪れ、戦災の傷跡残る上野駅周辺の浮浪者救済のための診療施設開設と関東に酪農を主体とするトラピスト施設の必要性を説いた。木下の日記にも「共に予の共鳴する所なり。考慮を約す」とある。
木下は早速その翌日の宮内省事務調査会でフロジャック提案を披露して、宮内省の協力を取り付けた。
しかも、那須の名前は早くも十一月二九日に登場し、木下退官直後の四六(昭和二一)年七月には木下の斡旋で那須御料地約三百町歩が貸し下げられることが決まる。
フロジャック神父は貸し下げられた川西御料地六〇町歩を「聖ヨゼフの山」、奥まった道上下の御料地を「聖マリアの山」と名づけて、早速開墾が開始され、引揚者、復員兵の受け入れを始める。この地には那須診療所、林間学校宿舎、精神薄弱児のための光星学園(現マ・メゾン光星)などが次々とつくられていく。
この御料地貸し下げの背景を見ておこう。木下によれば、フロジャック提案を昭和天皇に話したところ、昭和天皇より「助けてあげなさい」と言われ、それがきっかけで林野庁との話し合いもつき、貸し下げることになり、成績によってはこれを払い下げることまで決まったとしている。
興味深いのは一九三四(昭和九)年に侍従となり、侍従次長、侍従長として半世紀余にわたって側近を務め、宮中生活最後の休日に急死した入江相政もフロジャック神父と交流していた。この入江もクリスチャンだったとする説もあるが、現時点では事実かどうか確認できていない。
『入江相政日記』(朝日文庫)にヨゼフ神父として登場するのは、四六(昭和二一)年三月十九日この時入江はフロジャック神父と会食している。
木下と入江の口利きもあっただろうが、昭和天皇も積極的に支援したことは間違いない。これを順に追っていこう。
フロジャック神父は四六(昭和二一)年十二月十九日に天皇皇后両陛下に進講する。カトリック宣教師が単独で拝謁したのはこの時初めてと言われている。この時、入江日記にはフロジャック神父が「大変色々申上げて面白かつた」とある。
四七(昭和二二)年九月二日に木下道雄が拝謁しているが、おそらくこの直後に行われる両陛下の那須巡行の件でお願いでもしたのだろう。
五日後の九月七日、入江日記には「夕狩の慈生会に行く。フロージヤアク老が大変な元気で何かと案内してくれる。例によつて愉快といつたらない。」と書かれている。
翌九月八日にも両陛下は慈生会を訪れている。フロジャック神父は、進駐軍やフランス大使館員や大工を一人ずつ引き合わせた後、「私は日本人以上の愛国心を持つて居ります。一生懸命に致しまして必ず立派な国に再建致します、云々」と語る。入江はこの時の様子を「フランス人らしい上品なユーモアの連続で非常にお楽しませした」と書き記した。
四八(昭和二三)年もフロジャック神父は二度にわたって両陛下に拝謁し、この年には高松宮、三笠宮も慈生会施設の視察を行っている。つまり、皇室あげてフロジャックの事業を後押ししていたのである。
■弁慶神父「会心の傑作」とは
皇太子の結婚の儀が行われたのは五九(昭和三四)年四月十日、その年の十二月十二日、フロジャック神父は帰天。「わたしは貧しいひとびとの友であった。わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。思召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」との遺言を残した。フロジャック神父には勲四等瑞宝章が贈られ、昭和天皇より祭資料を賜る。
この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。その中には、軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。
そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。
美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね
これが何を意味するのかは、木下が一番よく知っている。その翌年一九六〇(昭和三五)年七月二日、朝日新聞社講堂では「フロジャック神父を偲ぶ集い」が行われた。
この時壇上には、すでに敬虔なカトリック信徒になっていた木下道雄の姿があった。この時の木下の「フロジャック神父を思う」と題する記念講話は、『フロジャック神父の生涯』(五十嵐茂雄、緑地社)におさめられている。その四二五ページから引いておきたい。
神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と期待との熱きものがあったのではないかと思います。
「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。
フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。
一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也、文藝春秋他参照)。
弁慶が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。
『フロジャック神父の生涯』のとびら裏にはこんな言葉が飾られている。
最後の握手皆様によろしくとみ声細く
仰せありしも悲しき思ひ出
正田きぬ
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