この春から大分県の大学に通う兵庫県出身のSといいます。18歳の男子学生です。現在通う大学で環境問題についての知識を深め、将来は今世界で起こっているさまざまな問題のうち一つでも解決に導ける仕事に就きたいと考えています。平岩さんの記事を見て、自分の環境問題に対する知識の浅さを知るとともに、より正確な知識が必要だと感じました。
そこで質問なのですが、平岩さんにとって今の日本がこれらの環境問題にどう対応すべきか意見を聞かせてほしいです。返事はいつでも結構です。
昨年12月、萬晩報に投稿した「環境問題は政治的な問題である」に対し、先日上記のようなメールをいただきました。私は環境問題に関して専門的な科学的知識を持ち合わせていませんが、環境問題について企業や研究者の方々に話をうかがう機会があります。そうしたわずかな知見に基づき、参考までに私なりに考えていることを記します。
そこでまず環境問題とは何かから考えていきたいと思います。拙文でも述べましたように、私は環境問題を克服するためにはアメリカ型文明、ライフスタイルを改めることが必要だと思います。アメリカ型文明とは、恒常的により便利で新しいものを求め古いものを廃棄し、より多くのエネルギーと物資を消費することで豊かな(?)個人生活を実現することに価値観をおく文明です。戦後、私も含め多くの日本人がテレビや映画を通してそんなアメリカン・ウェイ・オブ・ライフに憧れました。アメリカを訪問した折、司馬遼太郎は、こう記しています。
「(都市の使いすてとというが、あるのか)とおもうほどのショックをうけたのは、ワシントンからニューヨークにもどる途中、列車の窓からフィラデルフィアの鉄鋼製構造物の巨大な廃墟群をみたときだった。ぬしをうしなった造船所や人気のない造機工場、あるいは鉄道車輌工場といった、十九世紀末から二十世紀半ばまでの花形産業が、精一杯、第二次世界大戦までいきながらえはしたものの、いまは河畔にながながと残骸の列をさらしている。……いわば豪儀なことができるほど国土がひろいということもあるだろう。しかし資本というものの性格のきつさが、日本とくらべものにならないということもある。この社会では資本はその論理のみで考え、うごき、他の感情はもたない。労働者も労働を商品としてのみ考え、その論理で動く。論理が、捨てたのである。凄みがある。」『アメリカ素描』(新潮文庫)
ちなみに司馬遼太郎はこの本の中で文明を「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」とし、対して文化を「特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもの」と定義しています。
ところで『アメリカ素描』が読売新聞に連載されたのは1985年のことですが、上記のフィラデルフィアの記述を含めて、環境問題に言及された箇所はありません。
ヨーロッパでは1970年代から酸性雨が国境を超えた公害問題として、外交問題に発展していました。80年には西ドイツで緑の党が結成され、さらに酸性雨によりドイツの森の死滅が予測され、西ドイツ政府が大気汚染対策を強化していきますが、いまだグローバルな地球環境問題という観点からは議論がされていません。しかし、地球環境問題はこの延長線上にやがて、石油をジャブジャブ使うアメリカ型の消費生活を見直そうというだけにはとどまらず、同時に政治的な課題としても姿を現すことになります。
国際政治の舞台にのぼる環境問題
私は「環境問題とは政治的な問題である」で、環境対策は経済的利害を発生させるとともに、その科学的根拠もあいまいであることから、各国の利害がからみあい政治問題化せざるをえないと書きました。しかし、この5月の連休中に読んだ米本昌平著『地球環境問題とは何か』(岩波新書 1994年刊)により、環境問題は以前考えていたように単純に経済的な利害関係に基づく次元でのみ、政治に関わっているわけでないことを教えられました。地球環境問題はその出自そのものからして、国際政治という土壌と切り離せないというのです。
米本氏は地球環境問題を「自然科学(地球物理、気象、生態、海洋など)と社会科学(経済、金融、法制度、行政、国際政治など)とを一気横なぐりに融合させてしまう動機をもっており、しかも何らかのかたちで政策立案(エネルギー政策、産業構造調整、国際交渉など)に結びつかざるをえないものである」と定義。国際政治の上で地球環境問題が本格的に登場したのは1988年秋の国連総会だといいます。
この年の6月には米ソの間でINF条約(中距離核戦力全廃条約)の批准書が交換され、翌89年には東欧革命が起こり、11月にはベルリンの壁が崩壊しています。
環境問題を国際政治の課題に押し上げたのはソ連のシェワルナゼ外相(当時)の国連総会での演説でした。
「環境カタストロフの脅威という前にあっては、二極化したイデオロギー的世界対立的図式は、却下される。すべての人が、同じ気象体系を共有しており、誰一人として、環境防衛という自分だけの孤立した地位に立てるわけではない。人工の第二の自然、つまり技術圏はきわめて脆弱なものであることがはっきりした。多くの場合、その破綻は、たちまちのうちに国際的で地球レベルのものになる……」(『地球環境問題とは何か』より)とし、92年もしくはこれより早い時期にサミットレベルでの環境に関する国連会議を開くことを提案しています。この国連演説には86年に起きたチェルノブイリ原発事故の影響が色濃く感じられますが、私はソ連崩壊のきっかけはこの事故にあったと思います(中国の四川地震も中国の政治体制に大きな変化をもたらしそうな気がします)。
さらに続いてこの年の12月7日(パール・ハバーの日)には、ゴルバチョフソ連書記長(当時)が国連で東西冷戦終結の引き金となったソ連軍の50万通常兵力の一方的削減を宣言するデタント演説を行い、その中で発展途上国の債務問題に言及したあと、「国際的な経済安全保障は、軍縮ばかりでなく地球環境への脅威に対する認識を離れては、考えられない」(同上)と述べています。ちなみに、IPCC(気候変動政府間パネル)は、この演説の1日前に設置されています。
翌89年に入ると環境問題の国際会議が堰を切ったように、次々と開かれます。3月5〜7日にはイギリスのサッチャー首相の主導で「オゾン層保護に関するロンドン会議」が開かれ、2000年までにフロンの生産と消費を全廃するというヘルシンキ宣言を採択。3月10〜11日にはフランスがオランダ、ノルウェーと共催で、ハーグで地球温暖化問題に関する環境サミットを開催し、早くも地球環境問題をめぐる主導権争いが始まります。そして、92年は環境問題が国際政治の課題として認知される上で大きな分水嶺となりました。国連環境開発会議(地球サミット)が開かれ、103カ国の首脳が気候変動枠組み条約に署名し、一方では米ロによるSTARTU(戦略兵器削減交渉)がスタートしました。
つまり、東西冷戦構造が解体する過程の中で、地球環境問題が国際政治の新たな課題として浮上してきたのです。常に新たな脅威、対立軸を生み出していくのは国際政治の性のようなものかもしれません。地球環境問題は「地球に優しい」というソフトな相貌ではなく、安全保障のテーマとして現れたのです。従来、国家は軍事力を背景に国益の増強を図り、国際会議のテーマはワシントン会議に見られるように軍縮でした。その行き着いた先が、米ソが保持する核兵器の均等に上にたった冷戦構造でした。
1980年代後半から1990年代前半に至るこの時期の国際政治の動きは、後世、人類の大きなターニングポイントとして記憶されることになるでしょう。そして国際政治の東西の対立軸は、南側諸国から「環境帝国主義」と告発されるように南北の対立軸へと移行しました。世界最大の過剰なエネルギー消費国・アメリカは発展途上国が参加しない温暖化対策は無意味として、京都議定書の批准を拒否しました。(つづく)
平岩さんにメール hk-hiraiwa@tcn-catv.ne.jp
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