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政治用語としてのPeopleと人民

2007年01月19日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄
 トクヴィルの『アメリカの民主主義』(岩波新書)を読んだ。上・下2巻は読み応えがあった。トクヴィルは「人民による統治」がどうなるのか、興味を持ちながらアメリカを旅してこの著作をものにした。

 トクヴィルがこの名著を書いてからすでに150年以上が経つ。トクヴィルはこの著作の中でアメリカの民主主義を絶賛するのだが、基本的に民主主義に対して懐疑的な考えが随所にみられる。「人民に名を借りた専制ほどひどいものはない」ことを150年前に看破していた。

 フランス革命はまさにそのようにして始まったし、ロシア革命だって毛沢東による革命にしても民主主義とは程遠い独裁制である。社会主義や共産主義は「人民の人民による人民のための政治」だったはずである。

 戦後の日本はまだましな方かもしれないが、予算を私物化する政治家はいつまでたってもなくならない。政治を私物化する政治家が有権者によって選ばれることをわれわれは繰り返し経験してきた。

 なぜそういうことが起きるのか。人々は本当に「人民の人民による人民のための政治」など求めているのだろうか。多くは政治から一線を画することを「潔い」とするし、そもそも政治と関わり合うことは面倒くさいのだ。日本の政治を見ていると、そんな疑念さえ起きてくる。

 政治用語の「人民」はもともと英語のPeopleから来ている。しかし、われわれの語感でPeopleと人民はかなり違う意味合いを持つ。人民といった場合、われわれは社会主義の観念を想起するからだ。

 われわれは中国人民とはいうが、アメリカ人民とは言わない。このニュアンスは日本人にとって決定的に違う。ところが、英語でPeople of China and people of the United States といえばまったく違和感はない。Japanese peopleだって同じだ。どうしてかというと、この場合のpeopleは「人々」といった意味合いで理解されているからだ。

 日本の保守系の人たちはあえて人民という言葉と使いたがらない。小生も嫌いな表現の一つである。そこで日本ではpeopleの訳語に「国民」という言葉を使うことが往々にしてある。

 日本国憲法には「国民」が多用されている。憲法には国民のほかに「何人」という表現も使っている。たぶん国民ではないが日本に居住しているpeopleを含めた表現なのだと思っている。アメリカが示した英文の憲法草案ではすべてpeopleであるはずなのだ。国民以前の民をどう表現すればいいか。日本語にはしっくりいく表現がないのかもしれない。当たり前だが、大日本国憲法には「国民」という表現は一切なく、すべて「臣民」と表現された。

 それでは単に民と表現したらどうか。しかし「民」もまた、だれかに導かれているという語感がある。主体的に政治に関与する人々ではない。

 それでは直訳的に「人々」と表現したらよかろうと思うが、政治用語としては軽すぎるのかもしれない。

 リンカーンの有名なゲティスバーグ演説の「government of the people, by the people, for the people」は日本語では「人民の人民による人民のための政治」となってしまった。慣用句としてわれわれは慣れ親しんでいるが何か違うのである。

 Peopleの概念はわが日本にはないのかもしれない。(続く)

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