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京都を救った人物 ヘンリー・スティムソン

2006年03月13日(月)
Nakano Associates 中野 有
 人生は短いが、書籍は多い。良書に巡り会うのは幸運である。そして、感動した本の著者から直接お話を聞くことにより人生が豊かになる。

 国務省出身のヤングさんから、1945年の春と夏の日米の外交が描かれた『敗戦―一九四五年春と夏』(光人社、2005年9月)という本を薦められた。著者は、海軍大尉として敗戦の現場を体験された左近允尚敏さんである。

 この本の問いかけは、「日本はなぜ負けるべくして負けた戦争を始めなければならなかったのか」である。とりわけ、原爆投下の標的の選定の章が興味深い。左近允さんは、現場体験と時を経て公開された情報を基に歴史の証人として、「敗戦」の中に歴史の事実を語られている。

 貴重な情報や見識をこの本から学ぶことができた。冒頭に述べたように良書に出会えば、著者に会いたくなるものだ。ヤングさんを通じ、左近允さんとお会いすることになった。

 1月の大雪の日に逗子でお目にかかった左近允さんは、80歳とは思えないほどダンヒルのパイプが様になる粋な老紳士であった。喫茶店で数時間過ごしただけでは、話が尽きず、横須賀に移動し、ディナーを交え、戦争・敗戦の日本の苦悩の空気を学ばさせてもらった。時が経つのを忘れる程、戦争の内幕の話を聞くのに熱中した。駆逐艦の航海長として二度の沈没を経験され、米軍機の激しい攻撃を受けられ、海に投げ出された話など・・・死の一歩前の心情には、紙面では味わえぬ高揚と臨場感があった。

 戦闘の現場にいる時に与えられた仕事があればそれほど恐怖を感じない。一発で死ぬことはそれほど怖くなかったが怪我の方が怖かった。戦争に行くときに決して自分は死なないと感じる。これらは左近允さから聞いた話であるが、自分が戦争に直面したときもこのような感覚に陥るのだなあと考えさせられた。

 10年もすれば戦争を経験された人の年齢が90歳を超える。戦争の虚しさという免疫を伝えるためにも、日本を守ってくれた先輩から戦争の現実を教えてもらうことが如何に大切であるか。

 原爆投下の標的は、広島、長崎、小倉、新潟、京都であったとの知識はあったが、『敗戦』を読むまでは京都が原爆投下の標的の第一にあがっていたのを知らなかった。そして、当時、陸軍長官であったヘンリー・スティムソンが京都への投下をくい止めたことも知らなかった。戦前、スティムソンは京都に滞在されたことがあるらしい。京都でどんな経験をされたのであろうか。これらの事実は日本人として知らなければいけないことだと思う。

 以下、左近允さんの「敗戦」の第8章―マンハッタンプロジェクトの標的の選定(ページ163-166)の一部を引用する。 
空軍士官3人と科学者5人から成る標的委員会は、1945年5月2日にワシントンで会合し、日本の国民と政府に最大の奇襲的効果を与えて継戦意欲を失わせるような標的であること、重要な司令部、大規模な部隊、あるいは軍事産業のセンターが存在する軍事的な標的であること、原爆を搭載したB−29が到達できること、目視による投下が必要なこと、予想される爆発力と被害の程度、一回の攻撃に三目標が必要なこと、などを前提として検討し、四都市を選定した。小倉、広島、新潟、京都である。

 標的委員会は5月28日の第三会合で三標的をあげた。京都、長崎、新潟の順であり、照準点は市街地の中心地となった。しかしこのリストを見たスティムソンは、京都は歴史的な都市であり、日本人の宗教の中心地であると強く反対した。

 彼が三日後の臨時委員会でも、グローブスはなお強く京都を主張、アーノルドも支持したので、スティムソンは新旧の首都を標的リストから外すようトルーマンに要請し了解を得た。それでもアーノルドとグローブスはまだ京都を断念しなかったのである。

 アーノルドはさらに京都を押し、どうしてもだめなら長崎をと言った。スティムソンはもう一度トルーマンと会い、ようやく京都を外すことが最終的に決まって、広島、小倉、新潟、長崎となった。
 歴史には「もし」はないが、この時期にスティムソンが陸軍長官でなければ、日本に最も強烈な打撃を与えるためにも京都の市街地に原爆投下という可能性は大いにあった。スティムソンは、7人の大統領に仕え、フーバー政権で国務長官、ルーズベルト、トルーマン政権で陸軍大臣を歴任し、原爆投下から5年後に83歳で亡くなっている。

 京都を救ったスティムソンという人物がいなかったら日本の文化の核が抹殺されたかもしれないのである。広島、長崎の犠牲者、遺族の方に申し訳ないが京都を救ったスティムソンに恩返しをすべきである。京都、日本はもっとスティムソンを知るべきである。そして、日本、いや京都は、スティムソンの家族や縁のある人を京都に招待し、スティムソンの功績を再考すべきであろう。

 左近允さんとの会話を通じ、萬晩報の主筆の伴さんの父上、伴正一さんが左近允さんの海軍の同期だと知り、外務省の伴さんの勤務地サンフランシスコまで行かれるほどの友人であることを聞いた。萬晩報のコラムが縁で国務省のヤングさんが薦められた良書を通じ著者の左近允さんとお会いした。京都を救ったスティムソンを知り、偶然にも外交・安保のシンクタンクであるスティムソンセンターが、ワシントンの家から5分の所にあることに気がついた。萬晩報の魅力は考えやビジョンをインターネットを通じ一瞬で何万人にお伝えすることのみならず、不思議な縁でサムシングが連鎖しているように思われてならない。

 中野さんにメール nakanoassociate@yahoo.co.jp

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