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中朝国境河川に描かれた壮大な開発構想

2005年12月29日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
 永塚利一『久保田豊』(電気情報社、1966年)と日本経済新聞社『私の履歴書』の久保田豊を読んでいる。戦前、北部朝鮮を舞台にとてつもないスケールの電源開発を行った人物である。戦後は日本工営という建設コンサルタント会社を設立し、日本の海外ODAのプロジェクトファインディング分野を切り開いた。

 当時の新興財閥である日本窒素の野口遵の資力をバックにしたとはいえ、昭和3年から同15年にかけて赴戦江など鴨緑江の3本の支流にダムを築き、流れとは逆の方向の日本海岸に水を落として73万キロワットという巨大な発電所を建設した。

 並行して鴨緑江の本流にも6個のダムを建設して400万キロワットの発電規模の電源開発計画を実施に移した。計画は完成の日を迎えることなく終戦となるが、鴨緑江の水豊ダムの70万キロワット発電所は完成し、いまも北朝鮮と中国東北地方に送電している。

 この計画の壮大さは昭和15年の日本国内の水力発電規模が280万キロワットであったことと比較しても理解できる。アメリカのルーズベルトがテネシー川流域を開発した有名なTVA計画の発電規模はケンタッキーダムを含め9つのダムで110万キロワットであるから、水豊ダムは当時としては世界最大であった。70年を経た現在でも度肝を抜かれるような土木工事だった。発電機ひとつとってもすごかった。1機10万キロワットを7機並べた。10万キロワットはもちろん最大だった。東芝はこの発電機のために製造工場を新設するほど大掛かりなプロジェクトだったのだ。

 水力発電の建設には建設現場への鉄道や道路の敷設も必要だったし、山中であるからトンネルの掘削も必要となった。なによりも発電した電力を消費する産業が不可欠だった。日本窒素の野口遵は興南の地に朝鮮窒素肥料会社を設立し、硫安のほかグリセリンやカセイソーダの製造を始め、その後、アルミニウム、マグネシウム、カーバイド、火薬その他あらゆる化学製品をつくる一大総合化学工場に発展した。

 TVAはアメリカという国家が威信をかけた事業だったのに対して、久保田の展開した事業は一個人の発想からスタート、民間の資金と技術で成し遂げたという点でも特筆すべきである。にもかかわらず、われわれは久保田の名前はおろか水豊ダムのことすら知らされていない。

 せっかく2冊の本を読んだので個人の備忘録として久保田が北部朝鮮でつくった水豊ダムの概要を記しておきたい。

 水豊ダム 鴨緑江の河口の新義州から80キロ地点。川幅900メートルに106.4メートルの重力式コンクリートダム。湛水面積は琵琶湖のほぼ半分の345平方キロメートル。昭和12年着工、同18年すべての工事を完成。総工費5億円。続いて義州と雲峰にそれぞれ20万、50万キロワット級の水力発電所建設に着手したが、完成を待たずに終戦となり、巨大なプロジェクトは半ばで中断された。

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