8月17日に書き始めた「アイ・アム・ノット・チャイニーズ」の続編がやめられない。いつまで続くか分かりませんが、また40年前の思いを書き続けることにしました。
南アフリカに長くいると精神がおかしくなる。そう思い、筆者と姉はプレトリアでの生活を2年と決めて、1967年に帰国した。
高校3年の姉と高校1年の筆者に父親は真っすぐ日本に帰ることを許さなかった。できる限りアフリカの地を見られるような日程を組んでくれた。18歳と16歳の姉弟が立ち寄ったのはソールスベリー、ザンビア、エンテベ、ナイロビ、アジスアベバ、カイロ、バグダッド、テヘラン、ニューデリー、香港、台北だった。今から考えれば、豪勢な旅だ。
当時の航空会社は次の乗り換え便がその日の内にない場合、1泊の費用を負担するというシステムがあったおかげでほとんどホテル代がいらなかった。というより父はそういう便をわざわざ選んで日程を組んでくれていたのだった。
まずは北隣りのローデシア(現ジンバブエ)の首都ソールスベリーに立ち寄った。プレトリア同様、ジャカランダの美しい町であるが、いまやそんな国が存在していたことさえ忘れ去られている。
ヤン・スマッツ空港で体験した最後の人種差別は、ソールスベリー行きの飛行機でもあった。二人の搭乗は一番最後で、しかも座席は機体の最後尾の席が用意されていた。
ローデシアはその昔、南部アフリカを開拓したイギリス人、セシル・ローズにちなんで名付けられた。ローデシアも南アと同様に温暖な土地で白人が多く入植していた。その白人たちは自らの利権を守るために決起、代表イアン・スミスは1965年11月、首相となって一方的に独立を宣言した。つまり第二のアパルトヘイト国が誕生したのだ。
驚いたのは当時、南アには400万人の白人がいてその4倍の黒人を支配していたのだが、ローデシアではたった20万人の白人が20倍の黒人を支配することとなったことだった。当時のアフリカ統一機構(OAU)ははげしくローデシアの動きを非難したが、たった20万人の白人政権に世界はなすすべを知らなかった。
この国は南ア以外に承認されることなく15年で消滅して、黒人国家ジンバブエが誕生するのだが、宗主国のイギリスは武力を行使してまで独立を阻止しなかったし、アメリカはベトナムで社会主義陣営と対峙していて南部アフリカで起きた出来事に関心は薄かった。一方的独立に対して世界各国は経済制裁をしたものの、南アを通じて物資はいくらでもローデシアに流れたから、スミス政権は強気だった。
15歳の筆者は「イギリスはなんて腰抜けなのだ」と思った。困ったのは、西隣のザンビアだった。世界有数の銅鉱山を抱えていたが、輸出のための鉄道がローデシアを通っていたから国難となった。OAUの一員として人種差別国の誕生を認めるわけにはいかないが、鉄道という生命線をその人種差別国に握られることになった。
戦後アジア・アフリカ諸国は相次いで植民地支配から脱却した。中国の周恩来、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、ガーナのエンクルマ、エジプトのナセルはそうした国々の輝ける指導者たちだった。1955年、インドネシアのバンドンにアジア・アフリカ会議(AA会議)を開いた時は絶頂期を迎えていた。
しかし60年代に入ると、彼らの指導力にも陰りが見え始めた。政治的独立は必ずしも経済的自立を意味しなかった。独立後に国民が求めたのは「食べる」ということだった。多くの国では貧困が政治不安をもたらした。アメリカとソ連による東西対立はそうしたアジア・アフリカの政治不安を増幅させた。
やはり、アジア・アフリカは自立できないのか。40年前、そんな思いが思春期の筆者を悩ませた。(続)
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