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ニセ医者とプライマリー・ヘルス・ケア

2005年10月17日(月)
長野県南相木村国保直営診療所長 色平哲郎(いろひらてつろう)
「近代国家」とは、封建社会が崩れた後の「領土・国民・主権」を確立した中央集権的な国家とひとまず定義できるだろう。日本は、明治維新によって幕藩体制が打ち壊され、近代国家として歩み始めた。と、ともに医療の仕組みも「欧州モデル」の導入によって先進諸国に「追いつき、追い越せ」と整備された。第二次世界大戦の敗北によって、さまざまな分野で米国発の「民主化」が図られたとはいえ、「領土・国民・主権」を備えた中央集権的な近代国家の枠組は、いまも基本的に変わっていない。

この資本主義経済を柱とする近代国家は、法に基づいて制度を「均質化・均一化」する特徴を持つ。政治・行政機構が一国を支配するためには均一化された共通の仕組みが不可欠なのだ。

日本国中どこへ行っても「円」が通用し、保険証一枚あれば誰でもいつでも医療機関にかかれる「国民皆保険制度」が成り立っているのも、その証であろう。

ところが、均一化された仕組みを前提とする社会では、その仕組み自体が「高度化」の名において手段から目的へと本末転倒しがちになる傾向もある。その最たるものが「資格」の世界である。資格を取ることが目的となり、ひとたび試験に合格すれば既得権をかちえたかの錯覚に陥る人が少なくない。資格とは、通行手形のようなもので、その関所を越えてから何を行うかが近代の課題であり、その先に目指すべきゴールがあったはずだ。

われわれ医師は、1948年に制定された「医師法」によって、免許・試験・業務などを細かく規定されている。医師資格がなければ、患者さんを診療できない。専門的な医学知識がなければ患者さんの生命を危険にさらす。医師資格は、求められてしかるべきである。誰もが、そう思うし、医師資格を否定する気は毛頭ない。が、あえていえば、資格の関門を突破したあとの「振る舞い」にこそ、医療の本質が現れるのである。

敗戦前、信州の山奥に「ドイツ語が読めない」医者がいた。地元の警察署長は「慶応大学出身」と自称する、その医者がニセモノだと突き止め、ある日、鉄道駅に警官を緊急配備。身柄を拘束すべく、水も漏らさぬ態勢を敷く。署長はニセ医者逮捕に自信満々だった。

だが……、ニセ医者は非常線をかいくぐって姿を消した。

佐久総合病院名誉院長・若月俊一氏は鶴見俊輔氏との座談「社会とは何だろうか」(晶文社)のなかで、医者が逃亡できた理由を次のように語っている。

「村の人がこっそり助けたんですね。なぜかというと、とってもいい医者だったらしいんです。いままで村に来た医者のなかでいちばんよかったと村人は言っていたという。」

「まず第一に、腰が軽くて、よく往診に来てくれる。そして実際によく治ったというんですよ。その前にいた医者なんか、博士号はあるんだけど腰が重くて来てくれない。一日に七人以上の患者はぜったいに診ない、それ以上診ると乱診になるという理屈なんです。いばってばかりいて、しかもお金にはきたなかった。」

「それに比べれば、あの医者はほんとうに親切だった。それだから、そこの青年団も婦人会も、あの医者をもういっぺん呼びなおすわけにはいかないかと言ったんですね。でも、ニセ医者ですからね(笑)。前にいた博士医者は、その博士号の上にあぐらをかいていた。ニセ医者のほうは、一所懸命に努力した。……こうなるとどっちがほんとうの医者かわからなくなる」

おそらくニセ医者は、自分が免許を持っていないという永遠の負い目から少しでも本物に近づこうとたゆまぬ努力をしたのだろう。村人の目線に立ち、村人の満足を引き出すにはどうすればいいかを考えた。その結果、あれこれ勉強もし、身を粉にして診療に取り組み、「名医」と信頼されるまでになった。ニセ医者の立脚点は、資格ではない。人間として医療にいかに携わるかであったろう。

じつは、この人間が人間として人間のお世話をするという行為は、近代医療が確立される遥か昔から人々が行ってきたこと。つまり医療の原点だ。それは、資格の有無で詐欺かどうかを問う近代の基準点とは必ずしも合致しない。原点といっても、針で突いたような点ではない。原点のほうが、近代の価値基準よりも広く、大きいのである。

国際的に重要性が叫ばれている「プライマリー・ヘルス・ケア」とは、この原点における医療行為を指す。第三世界の劣悪な医療環境下では、医師資格など持っていない医学生や保健師、看護師たちも限られたマンパワーを生かすために診療行為に携わるケースがある。そこで問われるのは資格の有無ではなく、人間として人間のお世話をどのように行うかという実効力なのだ。当然、病気を予防するための保健・衛生も含まれる。

「プライマリー・ヘルス・ケア」とは、身近な一般医による「プライマリー・ケア」(初期治療)とは異なって、プライマリー・ケア以前の予防措置を含む広大な領域に根を張っている。

そして、現代日本の高度化する医療現場においてもまた「プライマリー・ヘルス・ケア」の発想が求められているのである。前述の座談会で若月氏は、こう語っている。

「予診のなかにすべてがあると言ってもいいと思うのです。ところがいまの若い医者が大学の医局から来ますとね、予診なんかバカにする。(中略)ほんとうは予診がいちばんだいじなんで、その人の訴えを聞くことから、いろんなその人に特有な病状や、それを引き起こした生活条件などを知ることができるんですからね。」

「たとえば、父ちゃんが出稼ぎに出ていて、母ちゃんが『半年後家』の暮らしをしているなら、その母ちゃんの高血圧にはイライラからくる精神的なものが多いに違いない。そうすれば、血圧降下剤には神経をしずめるものをおもに使ったほうがよい(略)」

近代は、人間に多くのものをもたらした。一方で失ったものも少なくない。せめて、原点だけは常に見定めておきたいものだ。

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