マハトマ・ガンジーがインドに目覚めたのは南アフリカだった。約100年前、新進気鋭の弁護士として赴任した。赴任したとたんに体験したのが強烈な人種差別の洗礼だった。
ナタール州の州都ダーバンからヨハネスブルグに向かうため、ガンジーは列車の切符を購入した。弁護士であるから当然のように一等席を予約した。まもなくやってきた列車の車掌にインド人が一等席に座っていることをなじられた。ただちに二等車に移るように言われ、抗議すると車掌はもよりの駅でガンジーを列車から突き落とした。
この時の屈辱体験がガンジーをして後に反英闘争に走らせたきっかけとなる。それまでのガンジーは、イギリスによるインド支配に対して、慣れっこになっていたのかもしれない。南アでのガンジーはイギリスの弁護士資格を持ったれっきとしたイギリス国王の臣民であるはずだった。臣民であるガンジーが南ア人に差別されるいわれはなかった。そのイギリス国王の臣民が南アの列車から突き落とされて初めて自分のインド人としての立場を知るのである。
山下幸雄著『アフリカのガンジー(若き日のガンジー)』(雄渾社、1968)にそのあたりの事情が詳しく書かれているのだが、どうしても理解できなかったのは、ガンジーの「同じイギリス王を戴く臣民である」という意識だった。
筆者の南アでの体験からすれば、南アにはホワイトとノンホワイトしかいなかった。申し訳ないが、日本人よりも色の黒いガンジーが「あちら側の人間」でいられるはずがない。偉そうな話だが、当時の筆者はすでに「ガンジーの限界」を感じていた。
ともあれ10年前までの南アフリカという国にはアパルトヘイト(人種隔離)が厳然としていた。戦後、植民地は次々と独立し、民族自決がようやく実現したように見えるが、欧米社会は引き続き、南アの人獣差別社会を容認し続けたのである。
実は1960年代初頭のアメリカでも制度としての人種差別が存在していた。白人と黒人の学校は別々だったし、バスなどの公共交通機関もそれぞれ違う乗り物だった州が少なくなかった。「ドライビング・ミス・デイジー」という映画をみた方も少なくないと思う。主人公の老女デイジーと、初老のベテラン黒人運転手ホークとの友情を描いたものだが、映画の背景にはアメリカ南部で人種差別が日常化していた生活が描かれている。
戦後の国際社会は民族自決だとか民主主義という理念をそこそこ共有しているが、戦前の国際社会はまさに弱肉強食である。日本が満州国を設立して国際連盟が日本を批判したがそれだけだったし、ナチス・ドイツがチェコのズデーデンを併合してもイギリスは兵を挙げなかった。
それはそうだろう。イギリスはインドだけでなく東アフリカから南アまで、そしてマレー半島とボルネオ島の来た半分を領有していた。石油の宝庫である中東もまた完全にイギリスの支配下にあった。アメリカはフィリピンを支配下に置き、西インド諸島で覇権を握っていたのである。すべて武力による領有または支配だった。
第二次大戦の最中、アメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチル首相は戦後の民族自決をうたった大西洋憲章に署名したが、その席上、チャーチル首相は「それでもインドはイギリスのものである」と述べたようにイギリスは戦後もインドを放棄するつもりはなかった。
そんな状況下でガンジーは無抵抗運動を繰り返していたが、第二次大戦が始まった時、インド国民会議派の多くのリーダーたちは「いまこそインドが立ち上がるべきである」と反英闘争の開始を促した。しかしガンジーは「イギリスが困っている時に反英闘争は起こせない」といって腰を上げなかった。ガンジーのそんな深層心理が不思議でならなかった。(続)
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