筆者はこの度、『カフカとキルケゴール』という著書を出版した。
カフカは20世紀の初めに執筆したドイツ語系ユダヤ人作家である。生前は無名であったが、第二次世界大戦後、その作品世界がナチス体制の到来を予告しているとか、生の不条理面を強調する実存主義の風潮に合致するとかの理由で、一躍その名が知られるようになった。『変身』、『審判』、『城』などの作品が有名である。現在では一時ほどの流行はないが、戦後の文学や思想で、彼の影響を直接的・間接的に受けていないものはない、とさえ言えるほどである。
キルケゴールは19世紀半ばのデンマークで活躍したキリスト教思想家である。キルケゴールは、世界と歴史を法則の視点から俯瞰するヘーゲル哲学に反抗し、個人の主体的決断を重視した。彼は実存主義哲学の始祖とされている。
カフカはキルケゴールの著作を熱心に読み、手紙やノートの中で様々なコメントを残している。だが、それらはきわめて難解で、何を意味しているのか、専門の学者でもこれまでよくわからなかった。拙著は、それらを解読する試みである。この本の内容については、以下のホームページで紹介したので、ご関心の向きはご覧いただきたい。
http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~nakazawa/books/kierkegaard/
拙著は「オンブック」という形態で出版された。「オンブック」はすでに数冊発売されているが、拙著は学術書としては最初の「オンブック」である。
「オンブック」というのは、インターネットを利用した、いわゆるオンデマンド出版の一種で、デジタルメディア研究所代表の橘川幸夫氏の考案による「発行者が無料で出版事業を行えるフリーパブリッシング」のシステムである。詳しくはオンブック社のサイト http://www.onbook.jp/ をご覧になっていただきたい。以下では、この「オンブック」という出版形態について紹介してみたい。
周知のように、インターネットは、これまでテレビや新聞社や出版社というマスメディアに独占されていた言論の世界を個人にも開放した。ホームページ、メールマガジン、ブログなどといったツールは、金も知名度もなく、これまでは情報の受信者にとどまっていた個人が、ごく少ない経費で情報を発信できる手段を提供した。もちろん、現在でもマスメディアの力は、インターネットに依拠する個人よりもはるかに強大であるが、個人はそれにアリの一穴をうがつことはできるのである。
ただし、このような電子的な情報発信がどれほど盛んになっても、今後も当分の間、「本」という情報形態が消滅することはないだろう。筆者は人文系の学問の世界に身を置くが、情報源の大部分は今でも本と雑誌論文である。情報受信者の立場としては、分量の多いまとまった文字情報をモニターの画面で読むことは、かなりつらい。本は、はるかに目にやさしい。また、手軽に携行し、簡単に線を引いたり、書き込みをしたりできるのも、本の利点である。ただし、辞書や事典などの、検索によって利用する情報は、電子媒体のほうがずっと素早くアクセスできるので、こちらのほうは本という形態は徐々に消滅していくかもしれない。
書き手、すなわち情報発信者の側にとっても、本という媒体はいまだ捨てがたい。学会誌、専門誌、紀要などに発表できる論文は、執筆分量が制限されている。最近は電子ジャーナルという形態も出現しているが、これとても分量制限があることは同じである。自分の研究をまとまった形で世に問うためには、どうしても本という媒体が必要である。
筆者も研究成果を著書として出版するために、これまでいくつかの出版社と交渉したことがあるが、いつも問題になるのは「売れるか売れないか」という問題である。出版業界全体が不況にあるとき、筆者のような無名の学者が、必ずしも一般読者にうけるかどうかわからない学術的な書物を出そうとすれば(とはいっても、拙著は一般読者も十分に興味深く読むことができるはずである)、この問題をクリアーすることができない。かといって、自費出版にすれば多額の費用がかかる。
たとえ運よく出版できたとしても、日々膨大な本が出版され、廃棄されていく日本の出版業界では、その本が、本当に必要としている読者の目に触れ届くことは、至難の業である。地味な専門書は、大書店の片隅で埃をかぶっているのならまだましなほうで、書店にすら並ばないことも多い。
そういうときに、無料で本が出せるというのは、実にうまい話である。しかし、よく調べてみると、「オンブック」は、大量生産・大量消費を超える、真に時代に即したシステムであることが判明する。とくに学術書の執筆者にとっては朗報であろう。
専門的な学術書というのは、もともと読者数が限られている。これまでの出版形態では、そういう書物でも一度にある部数を印刷しなければならない。しかし、利益が出る一定の数が売却できるまでには相当の時間がかかるし、中には当然売れ残りも出てくる。もともと製作部数が少ないので、1冊の定価は高くなる。そうするとますます売れにくくなる。出版社側のリスクを避けるために、出版に際しては著者がある程度の負担金を支払わなければならないことさえある。また今度は逆に読者の立場になると、自分にとってどんなに重要で入手したい書物でも、いったん売り切れて絶版になると、なかなか重版してもらえない。
しかし、「オンブック」では著者が無料で本を出版でき、その本の電子データがあるかぎり、読者も必要な本をいつでもインターネットから購入できる。本の製作は、受注の時点で始まるので、出版社側のリスクもない。これこそ、少量生産・少量消費の学術書にふさわしい出版形態ではなかろうか。
「オンブック」で本を出版するためには、原稿を執筆することはもちろんだが、それをさらに「Word」や「一太郎」などのワープロソフトで本の体裁に整形し、PDFファイルに変換することが必要である。だが、この程度のことであれば、パソコンを1年も使っていれば誰でもできるようになるだろう。
「オンブック」は、お金がなくても、知名度がなくても、学界や出版界にコネがなくても、本を執筆する能力がある人すべてに、本を出版する可能性を開く。様々な事情から今まで著書の出版をあきらめていた人も、「オンブック」によって本を出すことができるのである。これは、出版における一種の革命であろう。
また、絶版になって、出版社からは再版の見込みのない本も、「オンブック」での出版が可能であろう。インターネットではよく復刊リクエストの運動が行なわれているが、ある程度の購入希望者数が集まらないと、出版社は復刊してくれない。しかし、著者が原稿の電子データを保存していれば、すぐに「オンブック」として復刊できるだろう。
もちろん、本は、出版されたからといって、読まれるというわけではない。読まれるためには、それなりの内容がなければならない。オンブック社も原稿を審査し、すべての持ち込み原稿を出版するわけではないだろう。読まれる価値のある本は、口コミのような形でインターネット上で徐々に知られていくだろうし、その価値のない本は、いずれは忘却されるだろう。とくに学術書は、それなりの意義があれば、引用や反論という形で取り上げられるであろう。まったく論及されない学術書は、存在価値がないということになる。そこには、情報の中味がその本の価値を決めるという、一種の市場原理が働くであろう。
モノの市場はごく短い時間の範囲でしか機能しない。たとえば、私は5年前に10万円でデジカメを買ったが、今日では2〜3万円でそれよりはるかに高機能のデジカメが買える。しかし、本(情報)の市場は、はるかに長い時間のスパンで存在する。過去の本だからといって、その価値が下がるわけではない。価値といっても、もちろん価格のことではなく、その情報の重要性のことである。そして、情報に価値を認めるのは、個々の読者である。
キルケゴールは1855年に死んだ。生前、彼はデンマークでは、国教会に反逆する変わり者の思想家としか見られていなかった。彼の全集が、哲学言語としてはマイナーなデンマーク語からメジャーなドイツ語に翻訳され、ドイツ語圏の思想界に大きな影響を与え始めたのは、20世紀に入ってから、つまり死後約50年たってからである。そのようなことが可能であったのも、キルケゴールの本が存在していたからである。
彼は膨大な量の本を書いた。彼はどうやって自分の本を出版したのか? すべて自費出版であった。彼は大商人の息子で、仕事をしないで著述に専念できた。その頃はまだ本の売り上げだけで生きられるような時代ではなかったし、そもそもそんなに売れるような本ではなかった。彼は、父親の遺産をすべて著書出版に使ってしまい、財産がなくなった時点で――うまいぐあいに――死んだのである。彼の思想はもちろんユニークなものではあったが、それがただ頭の中に存在していたり、原稿用紙の状態でしか存在していなかったら、それは人目に触れることなく忘れ去られていたであろう。キルケゴールは、自費出版ができるだけの金持ちであったからこそ、自分の思想を残せたのである。
カフカは1924年に死んだ。生前は数点の売れない本を出しただけで、もちろん執筆だけでは食っていけなかった。彼の職業は保険会社のサラリーマンであった。カフカが爆発的に読まれ出したのは、死後20年以上たってからである。そんなことが可能になったのは、ブロート――その時代にあってはカフカよりもはるかに有名な作家であった――という彼の親友が、カフカ作品の価値を信じ、彼の原稿を命がけでナチスから救い、雑多な状態の未完の原稿から本を編集し、倦まず弛まず出版社と交渉したからである。それはまさに自己犠牲的な献身であった。そういう熱烈な支持者がいなければ、20年以上も前の無名の作家は、そのまま永遠に忘れ去られていたかもしれない。
本の執筆者は通常、キルケゴールのように金持ちでもないし、カフカのように高名かつ献身的な友人を持っているわけでもない。しかし、「オンブック」では、そういう例外的な幸運がなくても、本を出版でき、それを電子情報の形でインターネット上に残すことができるのである。
本は、時間・空間を超えた対話の媒体である。本を通して私たちは、仏陀やキリスト(仏典や聖書は彼らが執筆した書物ではないが)、古代ギリシャや古代中国の哲学者などの、2000年以上も前の人びととも対話できる。拙著は、カフカやキルケゴールらとの対話の成果である。「書物による対話」が本書の隠れたテーマでもある。
カフカはこれまで、世界中でどれほど多くの人びとに読まれてきたかわからない。しかし、彼の作品が本当に理解されたかどうかは別問題である。著者としては、数百万人の誤読者よりも、たった一人でも、自分の本と真剣に取り組み、その思想を深く汲み取ってくれる読者のほうが、うれしいのではないだろうか。そもそも、カフカの友人であり崇拝者であったブロートが、カフカ作品をほとんど理解しなかったことは、大いなるアイロニーである。本書は、カフカとこれまでになかった対話を行ない、彼の無視ないしは誤解されてきた側面を取り上げ、解明したつもりである。
筆者の見解に賛成するにせよ反対するにせよ、拙著に意義を見出してくれる人が一人でもいれば、著書出版の目的は達成されたことになる――その読者が、同じテーマに関心を持ち、インターネット上で本書を見つける、数十年先の読者であったとしても。「オンブック」は、出版に革命を引き起こすだけではなく、書物による対話の可能性も大きく広げるのである。
中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp
|