5月8日、八田與一の命日である。
墓前祭の前に、隣接したホテルで、「追思八田技師音楽会」が開催された。
音楽会とはいうものの、関係者や来賓の紹介、挨拶等々だけで1時間。お客様や目上の方を大事にするお国柄を感じた。
昼食を挟んで、墓前祭は滞りなく行われた。八田與一の半生をテレビドラマ化するということもあってか、テレビカメラが、やたらと目に付いた。
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その日、ダム近くのホテルに宿泊した私たちは、早めに起床し、1.2キロのダム堰堤の途中まで歩いた。ダムに貯められた水の中で泳いでいる方がいたのには、驚いた。聞くと、もちろん、遊泳は禁止であるという。のどかな光景である。
八田ご夫妻のお墓は、満面に水がたたえられたダムを見下ろすことができる小高い丘の上に作られ、そのすぐ横に、八田與一の銅像が置かれている。
銅像は、現地で働いていた方たちが、八田與一の功績をたたえ、製作を依頼し寄贈したものである。そして、この銅像は、日本と台湾との関係に翻弄されるかのように、数奇な運命をたどることになる。
終戦後、中華民国国民政府の蒋介石軍が、台湾に上陸し、台湾を統治することになった。
当然、日本人の銅像や碑は全て撤去された。八田與一の銅像も、同じ運命にあったと思われていたが、実は、水利会の方たちが、ずっと隠し守ってきたのである。
時代の流れを見、1975年、水利会は、政府に対し、銅像設置の許可を求めたが、不許可の通知。その後、1978年、再び、銅像設置の許可申請をしたが、その返事はずっと来なかった。政府としても、日本と正式に国交がない以上、許可を出せないまでも、不許可を出す理由までもないとして、黙認せざるを得なかったのであろう。その3年後の1981年1月1日、八田與一像は、台座をつけて元の場所に再び設置されることになった。こうして、烏山頭から持ち去られてから37年ぶりに「八田與一」は、温かい嘉南の人達の心に囲まれて、烏山頭ダムを見下ろし、現在に至っている。
朝食後、嘉南農田水利会顧問徐欣忠氏のご案内のもと、長い工事の間に亡くなられた方たちの霊を慰めるために作られた、「殉工碑」に向う。
徐氏は、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の世話人の方たちからすれば、まさに旧知の間で、私たちだけでなく、八田與一の話を聞きに来る、台湾、日本の方たちほとんど全ての、通訳及び説明役をされているという。
余談だが、徐氏の後継者として、私の後輩にあたる、慶応義塾への留学経験をもつ30代の若い方がおられたが、80歳近い徐氏には、まだまだ及ぶべくもないようだ。
徐氏は、殉工碑の前にきて、これまで以上に力を込めて、説明を始められた。
「八田先生が当時から、そして今でも、私たち台湾人に、心より尊敬されている、その最大の理由が、この殉工碑にあります。二つの点で、その偉大さが際立っていることがあります」。
声震わせて、話される。
その一つは、碑に刻んである名前は、日本人、台湾人の分け隔てなく、全て、亡くなられた順番に書いてあるということである。しかも、工事中の事故だけでなく、病気で亡くなられた方たちの名前も同じである。
とかく、安直に「人権」なるものが吹聴される現代の価値観からすれば、さしたることではないかも知れない。しかし、当時、台湾は日本に統治されていたという事実を考えた場合、まさに、あり得ないことであったろう。その決断力、実行力。
もう一つは、工事の従業員だけでなく、その家族の名前までもが刻まれているということである。
八田與一は自分の家族を大事にしているのと同じように、従業員たちの家族も大事にしていた。そもそも、「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎二百戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設した。
それ以外にも、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなどを行ったり、従業員だけでなく家族のことも頭に入れてのまちづくりを行っている。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想からであった。
家族があっての、現場の従業員であり、工事である。その家族が亡くなられるということは、大切な、従業員が亡くなることと同じである。その考え方のもと、殉工碑には、工事期間中に亡くなられた、従業員家族の名前も刻まれている。
工事期間中、八田與一にとって一番辛かったことは、随道内で発生した爆発事故であったであろう。
随道工事の最中に、石油ガスが噴出し、そのガスに火花が引火して爆発した。50名以上死亡するという大惨事となった。
その事故もあり、この殉工碑に刻まれている方のお名前は、134名にもなる。
また、この殉工碑には、八田與一の文章も刻まれている。
漢語調の、やや長めの文章であったが、徐氏は既に、何百回と口にしてきたのであろう。
「読み上げます」と言い、抑揚をつけながら、また、時には、途中で簡単な解説をつけ加えながら、既に暗誦しているであろう八田與一の書き上げた文章を読み、説明してくれた。その韻律に耳を傾けているだけで、徐氏及び台湾の方たちが、八田與一を心より崇拝しているお気持ちが伝わってくる。
その最後の方に、次の言葉がある。
「諸子の名も亦(また)不朽なるへし」
このダムの水によって、灌漑用水が流れている限り、皆さんの労苦は、忘れられることはない。
この一文を読むだけで、八田與一が、従業員の皆さんを思う気持ちが伝わってくる。また、その関係者も、この一文だけで、心震わされる思いをしたことであろう。
私は、殉工碑の前に立って、その文章を凝視し、言葉の力というものを、一人感じ入っていた。
山野ゆきよし http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/ 山野さんにメール mailto:yamano@spacelan.ne.jp
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