1897年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「A living God」と題して世界に紹介した日本の物語を紹介したい。安政の大津波(1854年)が紀州を襲った時、優れた村おさが村人を救った話である。その前年の1896年には三陸地震とそれに伴う地震で2万人以上が死ぬ災害があった。
寺田寅彦がいみじくも述べたように「天災は忘れたころにやって来る」。地震など天災に見舞われるたびに防災の必要性が語られるが、人間は忘れやすいものである。のど元過ぎれば・・・ということわざがある通り、防災無線を各戸に配布しても、「うるさい」からといって電源を切る家庭もある。避難勧告を連発すれば、そのうち誰も避難しなくなる。
災害が起きた後に防災を語るのは意味のないことではないが、災害がやってきた時にどう対処するかは結局、住民一人ひとりの意思でしかない。そんな思いがある。
紹介する「稲むらの火」は昭和12年から22年まで尋常小学校の小学国語読本・巻十に掲載された。和歌山県の教師だった中井常蔵が小泉八雲の作品を読みやすくして、教材の公募に応じて採用された。
「稲むらの火」
「これはただごとでない」。
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は烈しいといふ程のことではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは。老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであつた。
五兵衛は、自分の家の庭から心配げに下の村を見下した。村では豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向に気がつかないもののやうである。
村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸付けられてしまつた。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ。津波がやつて来るに違ひない」と五兵衛は思った。此のままにしておいたら、四百の命が村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶予は出来ない。
「よし」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛出して来た。そこには取入れるばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ」
と五平衛はいきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて火の手がぱつと上った。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立ったまま沖の方を眺めてゐた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。荘屋さんの家だ」
と村の若い者は急いで山手へかけ出した。続いて老人も、女も、子供も若者の後を追ふようにかけ出した。
高台から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのようにもどかしく思はれた。やつと二十人程の若者がかけ上つて来た。彼等はすぐ火を消しにかからうとする。五兵衛は大声に言った。
「うつちやつておけ。――大変だ。村中の人に来てもらうふんだ」
村中の人は追々集つて来た。五平衛は後から上つて来る老幼男女を一人一人数へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五平衛の顔を代る代る見くらべた。
其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。
「見ろ、やつて来たぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五平衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に細い暗い一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなった。廣くなった。非常な速さで押寄せて来た。
「津波だ」
と誰かが叫んだ。海水が絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかかつて来たやうな重さと百雷の一時に落ちたやうなとどろきを以て陸にぶつかつた。人々は我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た。水煙の外は、一時何物も見えなかつた。
人々は自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
高台でしばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村をただあきれて見下ろしてゐた。
稲むらの火は、風にあふられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまつた。
■稲むらの火 http://www.inamuranohi.jp/index.html
■A living God http://www.inamuranohi.jp/english.html
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