TopPage
 Yorozubampo Since 1998
サイト内検索 ご意見 無料配信


46年の幕を降ろしたチャンドラ・ボース・アカデミー

2004年12月19日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
 チャンドラ・ボースの遺骨返還運動を続けてきた林正夫さんから手紙が届き、高齢のため運動を担ってきた組織である「ズバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」を解消したことを伝えてきた。8月18日の今年の慰霊祭には参加できなかったが、その場で林さんが参加者に伝えたということだ。

 インドで人民党のバジパイ政権が成立し、ボースの遺骨返還がようやく実現するかもしれないという期待があったが、政権の崩壊で元の木阿弥となった。林さんの落胆は大きいものだったに違いない。

 来年で終戦60年。ボースにとっても60年祭を迎える。インドの独立に日本が大きく関わっている事実は戦後、忘れ去られた。アカデミーは細々ではあるが、ボースの遺骨返還運動を通じてその事実を伝えてきた数少ない団体である。

 アカデミー発足時はそうそうたるメンバーがインドと日本の架け橋となって活動した。そうしたメンバーのほとんどが亡くなった。林さんはその中でも数少ない存命者ということになる。

 大東亜戦争という希有な時代を語り継ぐことはとても難しい。歴史が勝者によって書かれるのは常だが、それがすべてでは負けた側は立つ瀬がない。チャンドラ・ボースがインド独立に果たした役割はインドでは歴史の一部である。にもかかわらずその歴史が日本では語られない。

 いつまでも自虐的史観にばかりひたっていては国民の跳躍はない。萬晩報としてはボース・アカデミーの精神を引き継いでいきたいと思う。

 以下、林さんの手紙を紹介したい。


 謹啓。終戦後59回目に当たる8月18日、ネタージの慰霊祭には御多忙中にも拘わらず御参集を頂き有難う御座いました。厚くお礼申し上げます。

 此の度は、私の持病神経痛が7月始めから痛み始め、たいした事はないと思っているうち20日から急に悪くなって腹ばいで何とか頑張って来ましたが、歩くことが出来ず、当日は立っていることも無理でしたが、責任を考え参加しました。

 お寺では痛みがひどく親切な人びとが助けて下さって有り難いと思い乍らも見苦しい恰好や年齢を考えると今後の活動に自信が持てず、先代御住職の時から合意されていたアカデミーを解消して蓮光寺に一切を御願いしたら、現住職は前々から承知されていたことで納得して頂いたので、御出席お方々に解消を申し上げました。法要を済ませて帰宅したら痛みはひどくて寝込みましたが、色々と御高配を仰いだ今日までのことが浮かんで此のままでは心もとなく一日も早く元気を取り戻し、蓮光寺にも足を運び、皆様方に拝眉出来る日を念願しています。敬具

        平成16年9月吉日
        スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー 林正夫
各位


 別紙:アカデミーが発足してからの概略

 アカデミーが発足したのは、昭和33年1月23日、ネタージの誕生日に日比谷の陶々亭に於いて、世話人として会長前大蔵大臣・渋沢敬三氏、最高顧問に元ビルマ方面軍司令官陸軍大将・河辺正三氏、次に兵隊のお母さんとして慕われ別にインド兵の世話で真心の人、江守喜久子氏、と光機関の元陸軍少将・岩畔豪雄氏を顧問に、ネタージと特に縁の深かった元陸軍中将・有末精三氏、ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷氏、元駐ドイツ大使・陸軍中将・大島浩氏、当時現役の衆院議員・高岡大輔氏、さらにビルマ方面軍大佐参謀・橋本洋氏を事務長に、別格に蓮光寺住職望月教栄師を主なるメンバーとして発足しました。

 終戦後からアカデミーとして発足するまでは個人個人での参詣でした。発足当日は、インド側から大使代理夫妻ほか情報班の方々、日本側から知名の方々が出席されとても盛大な式でありました。

 発足後、昭和38年10月、渋沢敬三会長の逝去により江守喜久子氏が二代目の会長に就任されてから精力的な活動に励んでおられた時、昭和40年、河辺最高顧問の逝去、続いて橋本洋事務長の逝去により、林に事務長の話がありましたが、林は「まだ30歳を少し越したばかりの若輩ですから」とお断りしたが、「タッテ」と言われて引き受けることになりました。

 昭和42年、当時の外務大臣・三木武夫氏と高岡大輔議員とは同期で昵懇と知って高岡氏の案内で江守喜久子会長のお供をして林も再三、外務省を訪れることになりました。

 昭和44年にはガンジー首相が蓮光寺を訪れます。

 昭和45年には江守喜久子会長はインド独立記念日を期してインドを訪問されます。

 同年末には岩畔副会長、逝去。

 昭和51年、蓮光寺にネタージの記念碑が完成。林はインドに行き、鉄道大臣のシャヌ・ワーズ・カーン将軍(元インド国民軍=INA第一連隊長)に面談したほか、サイガル夫妻や多数の旧INA兵等と会談。

 昭和52年、33回忌でインド大使夫妻、NHKより磯村尚徳氏出席。

 昭和53年、江守喜久子会長、逝去により、片倉衷氏が三代目の会長に就任。
 昭和54年、蓮光寺の望月住職、逝去。子息の康史氏、住職を引き継ぎ今日に至る。

 同年、ネタージの娘アニタ博士来日により日本クラブに歓迎する。其の節、約束したことが守れず失望する。さらにセシル・ボース博士(チャンドラ・ボースの甥)夫妻も来日されたので日本クラブで歓迎会を催す。

 昭和57年、藤原岩市氏、インドより帰国されて報告され、インドの外務大臣ラオ氏に嘆願書を提出するために打ち合わせを兼ねる。さらに日本の安倍晋太郎外務大臣に面接して嘆願書提出のため、片倉会長のお供をして林も同行する。

 昭和58年、中曽根康弘総理が渡印するような情報により、自民党政調会長を会長室にて片倉衷会長、金富氏、林の3人で面談する。

 同年、林はインドに渡航して経済企画長官に就任したシャヌ・ワーズ・カーン将軍より、目下、大統領に返還の話を勧めているが、見通しが明るいので、帰国したらアカデミーの方々に伝えてと頼まれ喜びは最高になる。帰国して報告すると一同、最高の歓喜に達するも12月、シャヌ・ワーズ・カーン将軍の死去の報により見通しが全く暗くなる。

 昭和59年、総理執務室で中曽根康弘総理と片倉衷会長、金富氏、林の3人は面談する。特に林は重要な記事を簡単に書いて手渡す。帰路、外務省に行き南西アジア課に総理との会見の内容を伝える。

 インドから帰国されたが、鶴首して待った。返答が得られず官房長官室に藤波孝生官房長官と金富氏、林は会見。外務省中元課長が同席する。
 昭和61年、藤原岩市氏、逝去。此のころより片倉衷会長が病いがちで入退院が続くので毎年続けてきた1月23日のネタージ誕生日を止すことに決める。

 平成元年、松島和子女史より母堂江守喜久子会長のご遺志を継ぎ永代供養の申し入れを実行するため会合す。

 平成2年8月18日、45周忌に松島和子女史の寄贈によるネタージ胸像完成除幕式を行う。当日は、片倉会長、有末顧問ほか関係者100人以上集まる。インドから招待したサイガル大佐と夫人のラクシミ元婦人部隊長、セシル・ボース博士、ロイ博士、マレーシアより元国会議員の女史も出席。INA現会長ほかも出席。

 平成4年、有末精三顧問、逝去に続き、高岡大輔氏、逝去。

 平成5年春、アカデミーの今後の方針を協議する。主なる出席者は9名。

 同年10月21日、自由インド記念日(チャンドラ・ボースが1944年、昭南市に自由インド仮政府を樹立した日)に大使館より招待を受け、主なる出席者9名。

 平成7年、ラクシミ女史より紹介を受け、クラークと姪が来日。ほかインド歴史研究所長サリーン博士来日。蓮光寺に案内した後、根岸忠素氏、林両名、印度料理に招待。

 同年5月、プラデップ・ボース氏と新宿タカノにて林は会見して驚く。彼の父親が第一回死因調査団のボースの実兄と判り苦言を呈す。

 同年8月18日、50回忌慰霊祭にテレビ朝日、フジテレビ、共同テレビからも取材に訪れ、100名近い参列者で盛大な法要が出来た。

 平成7年、元婦人部隊長ラクシミ女史より、ネタージの愛娘アニタ博士より遺骨引取の熱意を伝えてくる。数日後、アニタ博士より遺骨引き取りに協力を頼むとの手紙を受け取ったので私は、もちろん協力することを惜しまないが、インドの国内情勢によって決まることだからインド国内で努力するよう返事する。その後、連絡はない。

 別紙としてここまで書いてきましたが、まだ痛みが続いて不自由なため無理な姿勢で少しずつ進めてきたが、大切な箇所を抜かしているのに気付きました。今更書き直す勇気もないので気付いたまま進めます。

 第一に、平成2年4月10日、海部首相のインド訪問に際しネタージの遺骨返還を要請した大切なことです。首相の帰国後、インドの外務省は「インド国内に於いてネタージの死を否定する訴訟が行われており、其の裁判の結果が出たのち、遺骨返還を前向きに検討する」旨の返電が来ました。此の年の春、ちょうど林が心臓手術で入院中で金富氏の力添えでインド政府に要請した重要なことでした。

 次は、昭和32年秋、ネール首相と娘のガンジー(後の首相)が蓮光寺を訪ねる。続いてプラサド大統領が33年春、蓮光寺を訪れる。その後、ネール首相をはじめ色々のことがありましたが、失望することが残ります。

 平成12年バジパイ首相に代わってから蓮光寺を訪れ、遺骨返還に本腰を入れて取り組み最後の死因調査団長に弁護士ムカールジ氏、ほか数名を日本の外務省を通じて申し入れがあったので、光機関関係者数名と平成14年9月17日、インド死因調査団、蓮光寺住職を交えてインド大使館にも行く。調査団は18日最後に九州に行き、ネタージの最期を見届け死亡診断書を書いた元陸軍軍医大尉、吉見胤義氏にも会って帰国した。

 吾々は結果を鶴首して待ちましたが、今度の総選挙で絶対多数のバジパイ率いる人民党が敗れて総ては終わりました。

 返還が実現したら、たとえどんなことが有っても覚悟の上で林はお供する決意を抱いていましたが、91歳の老齢の身は夢のまた夢としてあきらめます。

 アカデミー発足時の目的は、ネタージの高潔な人格を通じて日印両国の文化的精神的な交流を第一にネタージに縁故の有る人々の集まりでした。

1. ネタージの遺骨を印度に返還。
2. 8月18日のご命日には必ず法事を行う。
3. 1月23日はネタージを偲ぶ会を催すこと(最近は老人多く中止)。

 以上、痛みをこらえて書いたので不備の点はお許し下さい。終わり。

TopPage

(C) 1998-2004 HAB Research & Brothers and/or its suppliers.
All rights reserved.