■7年ぶりの刊行
アメリカの『国家軍事戦略』(National Military Strategy)が近く刊行されることになった。
これは米統合参謀本部が数年ごとに発表する報告書で、ホワイトハウスが公表する『国家安全保障戦略』(National Security Strategy)および国防総省が公表する『国家国防戦略』(National Defense Strategy)を踏まえて、制服組が当面の軍の役割と目標についてまとめたものである。
文書はまだ公表されていないが、このほど軍事筋から全文を入手した。謝辞の部分など一部に空欄が残っているが、既にマイヤーズ統参本部議長の署名もあり内容的には完成した状態だ。
今回の報告で注目すべき点として、まずイラク戦争の開戦理由ともなった大量破壊兵器(WMD)に代えて、「大量破壊・効果兵器」(WMD/E)なる用語が登場したことがあげられる。第2に、向こう数年の軍の課題をいわゆる「テロとの戦い」の勝利に絞りこんでいることである。
内容については後述するが、まずはこの文書の性格を確認しておこう。 今回の報告は2代前のシャリカシュビリ議長時代に刊行された97年以来、実に7年ぶりの刊行となる。つまり911事件後初めてのもので、「テロとの戦い」が続く今日の軍事的状況を米軍首脳部がどう見ているのかが集約された内容となっている。
本来ならブッシュ大統領名で公表されている『国家安全戦略』をふまえ、とうに新版を出していなければならないところであるが、異例の長期にわたり新版が作成されないままとなっていた。
前回の報告書はその前の版が出てから2年後に発行されており、今回の未改訂期間の長さがわかろうというものだ。いつまでもクリントン時代の遺物を掲げていることに共和党政権中枢が面白いはずがないし、マイヤーズ議長にしてみれば911事件以降一変した軍事情勢を反映した報告書を一日も早くまとめて面目を保ちたいところだったはずだ。
しかし軍はその911以降、アフガニスタン、イラクと続く戦争に突入し、統参本部はとても『国家軍事戦略』の作成にとりかかれる状況ではなかった。
むろんイラクでは現在も出口の見えないゲリラ戦が続いており、米軍にとっては泥沼化の気配が濃厚な「不本意な膠着状況」が続いているが、これによってようやく報告の作成・公表するぎりぎりの余裕ができたということだろう。
■「WMD/E」の登場
今回の報告書では新たにWMD/E( weapons of mass destruction or effect)すなわち「大量破壊・効果兵器」とでも呼ぶべき新概念を導入している点が注目を集めそうだ。
報告書はこの概念の説明に多くを語っていないが、従来の兵器の枠組みを超えて「破壊効果よりも混乱をもたらす効果に重きをおく」と脚注で説明している。サイバー攻撃で金融や交通システムを混乱させれば、少量の化学兵器を散布するよりも社会に大きな経済的・心理的不安を与えるだろうと一例をあげている。
米軍は戦場を陸海空、宇宙そしてサイバースペースに区分しており、サイバー戦を現実のものとしてとらえている。それを裏付けるように本報告でも「情報優勢」(information
superiority)という概念を使用し、情報作戦が敵のネットワークや情報通信を利用した兵器、インフラ、指揮通信システムを混乱させ得ると強調している。
米陸軍は近年「ハッカー部隊」を正式に発足させているが、サイバー攻撃を新概念の説明にも使っているところに、これが現実の脅威となっている危機感が伝わってくる。
サイバー攻撃を行う敵軍やテロリストの「兵器」 は銃ではなくパソコンだ。戦車や戦闘機なら各種ジェーン年鑑やミリタリーバランスを参照すれば性能や配備数が明らかとなるが、引き金の代わりにマウスをクリックするサイバーゲリラの正確な規模や能力を知ることは不可能に近い。「見えない敵」はゲリラ戦同様、既存の通常の部隊が対応に苦慮する相手だ。
ただ、WMD/Eという新概念が定着するかどうかは未知数だ。
皆さんはCBRNE(cemical,biological,radiological,nuclear and enhanced high explosive)という言葉を聞いたことがあるだろうか。WMD/Eに似た広範囲な概念で、同時多発テロ直後に公表された01年の国防政策見直し(QDR)の中で登場したものだ。テロを受けて急遽突っ込んだといわれている。
radiologicalは放射能を撒き散らして環境を汚染する、いわゆる汚い爆弾を指し、high
explosiveすなわち威力の強い爆発物はビルに突っ込んだ旅客機を意識しているものとみられる。しかし詳しすぎるのが敬遠されたのか、CBRNEは日本の主要紙を検索してもたった1件(「毎日」の社説)しかヒットしなかったばかりか、英米の大きなデータベースをあたってみても一般メディアには数えるほどしか登場していない。使われているのは専門家向けの論文などに限られており、WMD/Eもこれと同じ運命をたどる可能性がある。
あるいは別な見方ができるかもしれない。
イラク戦争開始にあたり大量破壊兵器の有無が大きな争点となったが、結局何も発見できず戦争の大儀が揺らいでいるのは周知のとおりだ。確かにイラクが国連の査察を妨害し、いかにも大量破壊兵器を隠し持っているような印象を与えたために、国際社会が一定の不安を感じたことは事実である。
しかしWMD/Eという考え方に便乗してフセイン政権の対応は「大量破壊・効果兵器」に相当する、という主張がワシントンあたりから出てくる可能性には一応注意しておく必要があるだろう。その手の「政治的解釈」が出てくるようならこの用語は短命に終わるかもしれない。
また、インターネットを使って社会不安をあおる手口なども洗練されていくだろうが、これは基本的には古くからある心理戦の範疇に入るものだ。影響が社会不安にとどまっている限り、WMD/Eとは峻別して考えるべきだろう。 少なくともサイバー攻撃で証券市場がストップしたり、炭疸菌と誤認する粉末を政府機関に送りつけて数日に渡って庁舎の閉鎖をもたらすなどの社会的な機能不全が伴う攻撃に限定するという共通認識が必要だ。
■テロの現実味
しかし911事件とは違う形でアメリカ本土が新たな攻撃を受ける可能性は十分現実味がある。
これまでのところサイバー攻撃で金融市場がマヒするような事態こそ発生していないが、炭疸菌入りの手紙が議員やマスコミに送られて、議会の機能や一部地域で郵便配送業務に大きな影響を受けた事件は記憶に新しい。
また今年2月にはリシンが上院の共和党院内総務、フリスト議員の事務所で発見されるという事件があった。リシンは抽出が比較的容易な植物由来の毒物で、猛毒だが解毒剤が未開発というやっかいな物質だ。この騒ぎで上院ビルは数日間に渡って封鎖された。リシンが発見された数時間後、私は同じフロアで別の議員スタッフに面会の予定があったため、混乱の巻き添えを食ってしまった。同時に軍事大国アメリカといえど、パニック発生の芽は思いのほか多いことに気づかされた。
■消えた「悪の枢軸」
報告書によれば、『国家軍事戦略』策定の目的は3つのP、すなわち米国を守ること(protect)、紛争と奇襲を防ぐこと(prevent)、そして米国本土や在外部隊、それに同盟国に脅威を与える者を圧倒(prevail)することにある。
そしてこれらの戦略目標を達成するためとして@テロとの戦いに勝利、A部隊運用の統合化、B軍の再編に力を入れる、としている。
この部分だけを見ると陳腐な設定と思えるかもしれない。しかし前回、前々回の報告が「地域紛争こそ米国の最大の挑戦」と位置づけ、中東と北東アジアの二正面同時対応能力の維持を強調していたのと比べると米軍は「テロとの戦い」モードに大きくシフトしていることが鮮明になってくる。
近年はクリントン政権が93年にまとめたポスト冷戦時代の軍事戦略「ボトムアップレビュー」が二正面同時対応能力の必要性を訴えていたことから、同政権下の2度にわたる『国家軍事戦略』でもそれを受ける形で同じような点が強調されていた。特にイラン、イラク、北朝鮮の3カ国についてはブッシュ大統領が一般教書演説で「悪の枢軸」と形容する何年も前から名指しで地域紛争の火種となる可能性を指摘していたのだ。
意外なことに今回の『国家軍事戦略』ではこの3カ国には全く言及していない。しかし問題の3カ国が劇的な変化を遂げたわけではなく、イラクとアフガニスタンへの派兵が予想外に長期化し、兵士のやりくりに悲鳴をあげている状況では、とても相手にしていられないという米軍の事情によるところが大きいだろう。
今はとにかく911事件の再来を防ぎつつ、将来のテロの芽を根絶するために「テロとの戦い」に勝利することに専念しよう、という米軍首脳部の意志が伝わってくる。
ただしこの3カ国に対する敵視もしくは危険視の姿勢がワシントンから消えたと見るのは早計である。『国家軍事戦略』はあくまで軍のスタンスを示したものに過ぎず、ホワイトハウスが「戦線の拡大」を決意すれば新たな戦争に至る可能性は高い。当面のあいだ、特に対イラン政策は要注意である。
■ハイテクとローテクの役割
『国家軍事戦略』は現在進行中の米軍の再編についても短く言及しているが、具体的な記載はない。米軍は質の点で他国の軍隊を圧倒しているが向こう十年間、軍の再編と技術革新を行い統合能力をさらに高める必要がある、と記されている。部隊の編成、配置をテロとの戦いモードにシフトし、ハイテク化をさらに推進しようというのである。
米軍のハイテク装備は兵器ばかりではない。情報活動を支える通信傍受技術なども他国を圧倒している。ところがアフガニスタンとイラクでは重要人物の拘束という重要な作戦で失敗を繰り返すなど、多くの苦渋を舐めてきた。
2つの戦争の教訓として、情報活動とりわけ人による情報収集は死活的に重要だと報告書は指摘している。サダム・フセインの居場所を突き止めたのも電話の盗聴などではなく、近親者の自供に基づくものといわれている。技術革新の一方で、ローテクの極みといえる人間による情報収集にもっと力を入れる必要があると強調している。
アメリカを揺るがした同時多発テロから3年。米軍は「テロとの戦い」に思いのほか手こずってきた。長期戦を見据えて戦略と体制を立て直し、世界最強の軍隊の威信をかけて事に臨む−−今回の報告書はいわばそうした宣誓といえそうだ。
『国家軍事戦略』はブッシュが再選を果たし、軍事政策が継承されるめどがついたことで年内に発表される見込みだ。 (了)
根本さんにメールは mailto:mnemoto@anet.ne.jp
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