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西太平洋で国際語になりかけた日本語

2004年11月24日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
 英国人が偉いのは英語を国際語として残したことである。最大の植民地だったアメリカ合衆国が第一次大戦後、債務国から債権国になり、第二次大戦後は唯一、戦争被害を受けなかった国家として戦後世界経済のリード役となったことにも起因している。独立した合衆国が仏領ルイジアナを併合、スペイン領のテキサス、カリフォルニアをも飲み込みそれぞれの文化に染まりながらも、英語という言語だけは残した。

 アフリカの西端のギニアを訪れた時、フランス語を解しない筆者は本当に困った。アジアでは英語と中国語でなんとか用は済ませるが、西アフリカではフランス語圏が確固として存在していることにある種の感動を覚えた。コートジボアールやマリなど西アフリカでは英語はまったく通じない。多くの部族が国家的、言語的統合を迎える前にフランス語が流通したから、彼らの共通語となり、いまでは国語になっている。そういう意味でフランスも偉いことになるが、フランスの場合は旧植民地がその後、国際的に政治的、経済的地位を高めることはなかった。

 ■植民地を経済的に「開放」した英国

 英国植民地の場合は、領有というよりも通商拠点の確保が当初の目的だった。ジブラルタル、スエズ、ケープタウン、コロンボ、シンガポール、香港は今でも貿易・海運の拠点として栄えている。同じ植民地から収奪しても英国は町を作り、都市を多くの商人に開放した。スペイン人はカトリック教を押しつけ、フランス人はフランス文化を植え付けようとした。植民地の人々にフランス語を強要できても、周辺国の人々には使ってもらえなかった。

 その点、英国は植民地を列強に「開放」した。植民都市での共通語としての英語はこうして外国人にも親しまれた。

 香港の繁栄は「レッセ・フェール」にあった。場を提供し、外国人にもビジネスの機会を与えた。シンガポールも同様である。だから戦前から日本人もアメリカ人もやってきた。それぞれの商人たちは自国同士で集まって住んだが、お互いには「英語」を使った。英国は”後発”の植民地国だったため、自らが確保した通商拠点を「開放する見返り」として、先進植民地国に対しても通商拠点の開放を求めた。半ば余儀なくされた政策が、結果的に閉鎖的な支配を退けたのではないだろうかと思う。

 ■第1次大戦前の世界地図

 インド、マレー半島のアジア植民地はもとより、ケニヤやタンザニアなど東アフリカ諸国、南アフリカ共和国も英語圏である。インドは、まずポルトガルがゴアに拠点を築き、フランスも中部インド領有を目指したが、ポンディチェリの戦いで英国に敗れた。マレー半島の貿易の拠点だったマラッカはもともマレー人のムルッカ王国の首都。ポルトガルが陥落し、その後オランダの手に渡り、1825年の英蘭協定で英国のものになった。

 インド進出は、東南アジアの香料諸島がオランダの支配下にあったためやむなく出たものだが、「綿」と「茶」を得た。19世紀に東南アジアのペナン、マラッカ、シンガポール、香港という点を確保、「ゴム」「パーム油」「ボーキサイト」を獲得、最後に「アヘン」を見いだした。

 インド全体を版図に納めたのは19世紀後半のビクトリア朝の絶頂期である。インドで得たのは「シーク兵」と「グルカ兵」である。傭兵である。近代的徴兵制度はナポレオンが導入した制度だが、英国は無尽蔵の人材の宝庫だったインドに傭兵の供給源を見いだした点で「天才」である。19世紀後半のセポイの乱以降、英国に絶対服従したインド人は英印軍兵士として、多くの戦場で英国のために戦った。傭兵だから、狩り出されたのではない。

 英国は20世紀に入ってアフリカに地歩を固めた。南アフリカでは、ケープ植民地を奪取した勢いを駆ってオランダ系ボーア人と戦い(ボーア戦争)、オレンジ自由国とトランスバール共和国を手にし、英連邦に組み込んだ。ここでは「金」と「ダイアモンド」が戦利品だった。そこには世界最大の鉱脈があった。

 いまでもオッペンハイマー一族が率いるデビアス社が世界のダイアモンドの流通の9割を握る王国の地歩が形成された。英国は南アからさらに北上し、ローデシア(現ジンバブエ)、ザンビアにたどり着いた。ここは「銅」の宝庫だった。

 東アフリカのタンザニアはもともとはドイツ領だったが、第一次大戦で英国の委任統治領となった。ここは何もなかったが、保護領化したケニヤ、ウガンダと併せて南アから東アフリカにかけての英国の覇権は確立した。

 ■忘れ去られた南洋群島

 話題が英国の世界制覇にずれすぎた。言語に戻す。では明治維新以降の日本は何をしていたのだろうか。いまでも台湾のお年寄りの共通言語は日本語である。韓国でも年輩者は日本語を解する。善悪をいっているのではない。事実を語っているのである。そして、忘れられているがマーシャル諸島など太平洋のことである。

 第一次大戦の戦勝国となった日本は、ドイツが太平洋に領有していた島々を国際連盟の委託統治として実質的に支配下に置くことになった。現在の西からパラオ共和国、北マリアナ諸島連邦、ミクロネシア連邦(旧南洋諸島)、ナウル共和国、核実験場となったビキニを含むマーシャル諸島共和国。東西5000キロ、南北4000キロはゆうに及ぶ広大な空間は1920年から1945年の敗戦まで25年間にわたり日本領だった。

 共同通信社が発行する「世界年鑑」によると、住民に「カナカ族、カナカ族と米国人、ドイツ人、日本人との混血」と書かれている。これらの委任統治領は戦後、国連の信託統治領と名を変え、米国の配下に入った。ミクロネシアの初代大統領は、日系のトシオ・ナカヤマ氏(1979−87年)だった。最後の信託統治領となったパラオでは1992年、大統領選挙で日系人のクニオ・ナカムラ氏が当選した。すべての人口を加えても数十万人でしかないが、日本人と日本企業はこうした太平洋諸島に夢を馳せ、進出した。

 日本人の海外観光ツアーのメッカ、グアム島は北マリアナ諸島の南にあるが、米国が1898年の米西戦争でスペインから割譲を受けたもので、「日本領太平洋諸島」のど真ん中に確保した米国の橋頭堡だった。第二次大戦中に一時的に日本が占領したものの、一貫してアジアと西太平洋をにらんだ米軍基地として維持され、今も独立を許されていない。

 植民地フィリピンと委任統治下のあった北太平洋諸島もまた英語圏に入った。

 ■説教は島民には分からない英語だった

 数年前、日本語で出版されたヘレン・ミラーズ著「アメリカの鏡・日本」
(Mirror for Americans:JAPAN)に沿って、終戦直後の西太平洋諸島の生活を再現する。

 アジアや日本の専門家として米陸軍やシカゴ大学で教鞭をとっていたヘレン・ミラーズ女史は1946年2月、GHQの労働局諮問委員会のメンバーの一人として来日した。1948年この本を著したが、日本語への翻訳にダグラス・マッカーサーが「占領が終わらなければ、日本人はこの本を日本語で読むことはできない」と書簡に書いた。

 当時の米国から日本への空路は太平洋の島伝いに飛行機を乗り継ぐものだった。カリフォルニアからまずハワイへ、そしてジョンストン島、マーシャル群島のクワジャリン環礁にやってくる。そこで見た光景をこう記している。

「太陽が島を照りつけている。椰子の木は爆撃でぼろぼろになっている。私たちは教会へ行った。島民が100人ほど座っていた。最近ボストンからやってきた宣教師が改宗させたばかりという。説教は島民には分からない英語だった」

「クワジャリンは、激しい戦闘の末、初めて私たちの支配下に入った日本領土である。わずか2年前、1944年1月、ミニッツ提督が軍政を敷いた。海兵隊の書いた記事によるとジャップと現地住民の関係はまずくはなかった。怨みは買っていたが、全体として住民の扱いはよかった。子供たちを8時から11時まで学校へ行くことを義務づけた以外は、現地の生活習慣に介入しようとはしなかった」

 いまからは到底、想像もつかないが、かつて日本人は太平洋のど真ん中にまで生活の場を求めて定住していた。日本人が移住していったのはハワイやカリフォルニアだけではなかった。第一次大戦で戦勝国の権利として西太平洋の島々を日本が領有したからではない。そのずっと以前、スペイン人が領有していた19世紀から日本人は島伝いに生活の場を太平洋に広げていたのである。

 クワジャリンの子供たちは学校で何語で勉強していたのか興味あるだろう。英語やドイツ語であろうはずがない。戦後、この地を訪れた米国人が日本時代の”義務務育”に触れた通り、日本語だったのである。日本支配が25年間続いた土地である。

 ■日本人は商人や漁師としてやってきた

 ミラーズ女史はさらに、マリアナ諸島のグアムへ飛ぶ。原住民のチャモロ族について、16世紀以来、スペイン、米国、日本、そして米国と「4回も外国の支配者を変えた」ことに言及する。島民は直接、戦争して負けたわけではない。他の土地での日欧米の戦争の結果で為政者が変わった。最初の近代戦争は1944年に経験する”米国からの反攻”である。

 日本人との関係について「19世紀の後半になると、日本人が商人や漁師としてやってくるようになった」と書いている。スペイン人は島の交易には興味がなかったが、日本人は島と島の交易、日本との貿易を発展させていった。米国がスペインからグアムを獲得した1899年当時、数百人の日本人が定住し、チャモロ人と結婚していた。島の貿易はほとんど日本とのもので、日本船によって行われていたらしい。

 グアムは米国にとって海軍の戦力的拠点としての地位は高かったが、貿易には関心がなかった。日本との貿易を閉め出す法律が次々とできて、1937年には実質的に対日貿易は閉ざされた状況になった。ミラーズ女史によれば、グアムはマリアナ諸島で最も大きな島で、開発次第では農業や漁業などこの地域の生活を支える力があったが、米国はそうはしなかった。

 グアム以外のマリアナの島々は日本がドイツから獲得してからある程度発達したとする。チャロモ人と結婚して定住した日本人は1938年には7万人に達した。いまでも10万人程度の人口規模である。当時は、人口の半分近くが日本人だった。半数が農民で残りが漁民だった日本とあまり生活様式がかわらなかったから、島の生活に障害はなかったようだ。日本領マリアナでは、日本人が砂糖産業を開発した。魚の養殖技術も持ってきたようだ。資源のなかった日本は小さな島といえども産業資源として貴重だったはずだ。

 ■敗戦で価値を失った日本語と日本円

 1945年にこのマリアナ間諸島を訪れた米国の人類学者であるジョン・エンプリーは戦後の島の移り変わりを次のように報告している。

「20年にわたって日本の教育を受けてきた人々は、ある日突然、日本語と日本円が、英語と米ドルの前に価値を失ったことに気づいた。日本人と朝鮮人は、島で生まれ、現地人と結婚した日本人まで一人残らずいなくなり、経済活動に空白ができた。米国はこの地域の経済にそれほど関心を持っていないから、いままでの収入源のかなりが消えてしまった。サイパンとテニアンでは砂糖の店が消えた。アンガウルもリン鉱山は廃墟のまま放置された。コプラ(ヤシ油)集荷の船は出たり出なかったり。輸出先がないのだ。いまや島民は米軍施設での日雇いか、軍人相手の土産物屋しかない」

 ミラーズ女史もこんなことを考えながら島伝いに日本に近づいていった。
 台湾は1895年から50年、朝鮮半島は1910年の日韓併合から敗戦まで35年間の日本が支配した。樺太(サハリン)は1905年の日露講和からだから40年、それ以前は混住の地とされ、領有権はなかった。そう考えると西太平洋諸島の領有の25年は決して短い期間ではない。

 以前からの関心事ではあるが、戦後、海外領土からの帰国者は350万人を超えた。復員者は別にして多くは、戦争のずっと前から現地で生業を起こし、日本人町を形成して定着していたはずだ。なぜみんな帰ってきたのか。いやなぜ生活の基盤を奪われて帰国を強要されたのか不思議である。彼らが現地に残っていれば、日本語が現在の華僑の中国語のようにアジアや太平洋諸国でもっと広範囲に使われていたはずである。

 西太平洋での標準語だった日本語について語るつもりが、日本そのものになった。ただ60年前の雰囲気は伝えられたと思う。

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