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アメリカへの短期農業労務者の派遣
魁け春夏秋冬」1999年11月06日号から転載
2004年11月17日(木)
元中国公使 伴 正一
 カリフォルニアの大農場に日本の青年たちが不熟練外国人労働者の入国資格で働きに行っていた時代がある。そんな昔のことではない。昭和30年代、戦争の傷が癒されたかどうかという頃に始まり、東京オリンピックの直後まで続いた。

 当時、私は外務省でこの「派米短期農業労務者」というプログラムに携わっていた。略して「派米短農」と呼ばれた。

 ■農業研修と単純労働のはざまも

 この事業は、カリフォルニア州の果樹園や野菜畑で、手仕事による労働力の不足を補うものだった。日本側はアメリカ農業を学ぶという目的があったが、農場主の認識はもちろんのこと、米国移民法上の滞在資格も「Supplementary Agricultural Worker」(我が方では短期農業労務者と翻訳、略して短農と呼ばれるようになる)だった。日本側にどれほどこの抵抗感があろうとこれが日米合意の基本的枠組であることに変りはなかった。

 アメリカ市民はもはやこうしたきつい単純労働を敬遠するようになっていて、メキシコから国境を越えてやってきた合法、非合法の労働者がその主力を担っていた。CIOやAFLというアメリカの二大労働組合が、こういうメキシコ人労働者の存在を「農業労働賃金適正化の足を引っ張っているもの」として目の仇(かたき)にしていたのも無理からぬところだった。。

 そこへはるばる日本から、上限1000人とはいえ、毎年500人前後の農村青年を、メキシコ人労働者と同じステータスで送ろうというのだから、米国の労働界からの反対が起きないはずなはかった。

 日本国内にも「猫の額みたいに狭い日本の農地に大規模なアメリカ農業のやり方を取り入れる余地などない」とせせら笑う人もいたし、「アメリカへ行くといっても土地にはいつくばる単純労働では勉強にもならない」という指摘もあった。いずれも、まともには反論できないもっともな意見だった。

 しかし当時の日本では「アメリカへ行ける」というだけで「天にも昇るような話」だったし、「見るもの聞くもの、ためにならないものはないだろう」という思いも国全体にあった。

 ■2年間の労働で家が建つ

 彼らが手にするはずの賃金は1時間当たり70セントから80セント、アメリカの水準では問題なく低賃金だが、日本からみれば垂涎ものだった。真面目に2年間も働けば、現地での生活費や往復渡航費を差し引いても100万円をゆうに越す蓄えができた。

 辻堂や茅ヶ崎あたりの小さな一戸建ての家が80万円から90万円で売りに出ていた時世である。日本の青年にとって2年間のアメリカでの苦労は十二分に報われるものだった。

 果たせるかな、派米短農への期待は非常なもので、派遣人員を都道府県に割り振りする際、知事あたりからの陳情はひきもきらなかった。応募資格だった義務教育修了に関係なく志願者は殺到した。

 政府部内での主管争いも事業への期待の高さを反映したものだった。厳しい現実への即応という外務省の主張が通り、「実習」は"目的"ではなく、"期待される効果"にすることで収まりがついた。農政の大御所として知られていた石黒忠篤氏を運営機関「農業労務者派米協議会」のトップに迎えたのもその時の合意によるものである。

 選考は、知事の推薦者リストを基に、派米協議会、外務,農林両省、米国移民官の四者のチームがそれぞれの県に出向いて行われた。

 「うんざりするような長時間の単純労働に耐えきれるか」を主眼とし「折角のチャンスを生かして見聞を広めようとする志と資質があるか」にも配慮して念入りに人物を吟味したものである。

 最期に2週間の合宿訓練があり、英語と農作業が主な日課だったが、そのうち農作業には一種の最終選考の意味も併せ持たせた。

 事業が始まって幕を閉じるまでの10年間、アメリカ社会の指弾を受けるケースや契約期間終了後の居座りが一件もなかったというだけでも、この種の事業としては特筆に価するのではなかろうか。

 ■連発した「不満はないか」

 もっとも「短農事はじめ」時代には、笑えぬ喜劇とも言える失敗もあった。

 訓練には、往年の満蒙開拓民のリーダー格が何人か参加していた。開拓民を見捨てて去った軍と役人に対する烈しい憤りを胸に、集団を率い死線を越えて帰国の途についた彼らにとって、ほんの一部かも知れないが"満州"農民の差し伸べてくれた温かい救いの手はいつまでも忘れられないものだったようで、いつも口癖のように言っていたのが「土に生きる者の心は国境を越える」という言葉だった。

 ところが、それを聴いてその気になって出かけた短農青年たちがアメリカで見たものは、それには似ても似つかぬ吹きっさらしの資本主義世界だったのである。

 そんな誤解が影をひそめた後も労働条件やその他でトラブルが絶えなかったのは、ある程度予期されていたことでもあった。

 2度目のサンフランシスコ在勤で私は、農場主と短農青年との紛争処理のためにカリフォルニア全域を走り回ることになる。言ってみれば消防ポンプのようなものである。

 私とそんなに年の違わない若者たちの日ごろの鬱積した不満を聞き、農場主に掛け合うのが仕事である。農場で話を聞くのは彼らが仕事を終えた後,私がサンフランシスコから出かける時間次第では午後9時を過ぎてからになることも稀ではなかった。

 何しろニューヨークやシカゴの値動きを見ながら出荷量を決め収穫にピッチを上げたり下げたりするのが当時の大農場経営の定石だから、早朝からの突貫作業になるかと思うと、2日も3日も賃金の貰えない休みが続くことも農場によって珍しくない。

 地平線まで続いているようなアスパラカスの畑を「ちょっと一服」の暇もなく這いつくばって進むのには、零細農業に慣れた日本人のものとは別の波長の勤勉さが要るかのようだった。軍隊生活を知らない若者にとって、兵営のようなキャンプの生活は人間のものとは思えなかったし、頻繁に出るメキシコ料理への文句は絶えることがなかった。

 そんなこんなの不満を聴きながら「もう他にないか」を連発してありったけの憤懣を吐き出すと、時計の針が真夜中の12時を過ぎるのはしょっちゅうのことだった。

 だが私の方も結構しぶとかった。双方ともグッタリの態で、空気も沈静しかかったタイミングをとらえて私がよく口にしたのが「大切なのは志だよ」という言葉。引き合いに出したのが、幕末の頃、つらい水夫の手伝いをしながらイギリスに渡航した伊藤博文の話だった。「お疲れでしょう」と言って出してくれた缶ビールに口をつける時の安堵感は45年たった今も忘れることができない短農担当の醍醐味である。

 ■日本でも考えていい逆短農の導入

 事業の企画段階からその終幕直前まで、私はカリフォルニア現地にいたり、外務本省にいたりしながら,ずっと短農から離れることがなかった。

 幸いにして、短農OBが、アメリカで過ごした日々を懐かしみこそすれ、反米的になったという話は聞かないし、伊藤博文とまでは行かなくても,国の内外で頭角を現わした人材の話も耳にする。

「アメリカ農業」の体験がそのまま生かされなかったとしても、先進アメリカで見聞きしたことやさまざまな体験は短農OBの血や肉となり、それからの生きざまの発射台となったはずだ。

 ひたむきだった当時を顧みる時,短農時代はこの私にとっても悔いなき青春だった。それと同時に、当時のアメリカとは段違いの配慮で臨むような「逆短農システム」を考案し、アジアを中心に先ず2、3カ国からでも若者を日本に受け入れる体制ができたら、それはこれからの世界のためにどれだけ素晴らしい先例になることだろうという思いに駆られるのである。(魁け春夏秋冬」1999年11月06日号から転載)

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