■ローズ家とモリス家
前章で取り上げたエスター・B・ローズは後に普連土学園長、国際基督教大学理事などを務めたが、この間の1950年から58年まで、エリザベス・G・バイニング夫人の後任として当時の皇太子殿下(現在の天皇陛下)の英語教師に就任しており、54年には当時の皇后陛下の英語ご進講も委嘱している。つまり、現在の天皇陛下は13歳からの12年間をバイニング夫人とエスター・B・ローズの二人のクエーカーと過ごしたことになる。さらにエスター・B・ローズの出身高校も「ジャーマンタウン・フレンズ・スクール」である。従って、ジャーマンタウン・フレンズ・スクールを通じてバイニング夫人、エスター・B・ローズ、そして田中真紀子はつながっていることになる。また、エスター・B・ローズの出身大学はクエーカー派のアーラム大学であり、ボナー・F・フェラーズや渡辺ゆり(後に結婚して一色ゆり)との接点もある。
このエスター・B・ローズの家系には津田梅子や河井道が学んだフィラデルフィア
郊外のブリンマー大学の初代学長を務めたジェームズ・ローズやフィラデルフィア連邦準備銀行の初代総裁を務めた銀行家チャールズ・ジェームズ・ローズなどの名前が見出せる。
留学中の日本人が行き交う「グランド・セントラル・ステーション」となっていたメアリ・H・モリスのモリス家は大富豪として紹介されることが多いが、夫のウィスター・モリスはペンシルベニア鉄道の取締役を務めていた。
このローズ家とモリス家の中に戦後日本の経済発展に影響を及ぼしたクエーカーと資本主義の関係を知る手掛かりがある。
■日米現行憲法発祥の地としてのペンシルベニア
日本の偉人達を育てたペンシルベニア州にウィリアム・ペンが率いるクエーカー教徒達が上陸したのは1682年のことである。ペンは英国海軍提督ウィリアム・ペン卿を父として1644年に生まれている。当時の英国は英国国教会を強要し、従わない者は迫害される時代であった。当然クエーカーになったペンも迫害の対象となり何度も刑務所に入れられたが、ペンの父が国王チャールズ2世に貸した大金の証書を遺産として受け継ぎ、その返済の代わりに植民地ペンシルベニアの領地を手に入れたのである。したがってペンシルベニアの名前も(ウィリアム・)ペンの森がその由来となっている。
ペンシルベニア州は自由・平等・博愛を謳った独立宣言と合衆国憲法が起草、採択された場所であり、「合衆国誕生の地」あるいは「自由の発祥地」と呼ばれている。つまり日米の現行憲法はともにクエーカーの影響を受けていることになる。
ペンシルベニア州の東端にはフィラデルフィアがあり、西にはペンシルベニア鉄道での経験を生かして後に鉄鋼王となるカーネギーの故郷、ピッツバーグがある。
フィラデルフィアは世界の造船所として、日露戦争で活躍する4隻の軍艦の内の3隻をクランプ造船所で同時に建造していたこともある。この3隻とは日本の巡洋艦「笠置」、ロシアの戦艦「レトウィザン」、巡洋艦「ワリャーグ」である。
このクランプ造船所に学び、後に三菱造船所や鈴木商店播磨鳥羽造船所で技師長として海運日本の興隆に尽くしたのが枡本卯平であった。小村寿太郎の書生として小村に従って渡米し、英国にも渡りながら造船技術を身に付けた。
また、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の長男であり、三菱財閥の第3代当主となる岩崎久弥も1886年にフィラデルフィアに渡り、ペンシルベニア大学のウォートン.スクールで財政学を学んでいる。
この造船や鉄道の発展を支えたのが製鉄の街、ピッツバーグである。それではウィリアム・ペンの故郷であるクエーカー発祥の地、英国を見ていくことにしよう。
■英国経済史におけるクエーカー
近代の英国経済史におけるクエーカーの果たした役割は、古くから英国本国のみならず、日本でも注目されてきた。日本でも優れた著作が残されており、「近代英国実業家たちの世界 資本主義とクエイカー派」(山本通著、同文舘出版)を紹介したい。山本通はクエーカーをクエイカーと表記しているので、そのまま引用する。
トーマス・S・アシュトンは、「18世紀の初期の数十年間においてもっとも数多く、また、たしかにもっとも成功し、進歩的であった製鉄業主のグループは、クエイカーによって形成されたグループであった。実際、製鉄業の初期の歴史におけるより重要な諸章は、ほとんどキリスト友会(クエイカー派)の範囲の中で書くことができる。クエイカーたちが鉄生産の主な中心地のそれぞれで、同じ時期に製鉄所を監督している場合でさえみられた。(P150)」と指摘した。
製鉄業のみならず、初期の鉄道業においてもクエーカーの活躍が著しく、世界最初の鉄道といわれるストックトン=ダーリントン間鉄道の性格について詳細な分析を行った湯沢威は、この鉄道の「当初の株式払い込み金と借入を合計した総資金の70%弱が、クエイカーからの拠出によるものだった(P150)」ことを指摘してい
る。
さらに銀行業でのクエーカーの重要性についても神武庸四郎が次のように指摘している。「産業革命期のイギリスでは、銀行家が工業企業を兼営したり、出資者として資本参加する事例が数多く見出せる。この傾向は、醸造業や製鉄業において、特に顕著である。しかもこうした人的な融合関係にとって特徴的なことは、クエイカー教徒相互の結びつきという様相をはっきりと示している点である。バーミンガムのロイズ家はクエイカーの家系であり、18世紀後半には銀行業とともに製鉄業を営んでいた。また自らもクエイカーの血を継承したバークリー家は、銀行業務の拡張過程においてスミス、トリットン、ガーニーなどのクエイカーの家系を包みこみながら、1896年におけるバークリー銀行設立の中核となっている。(P150、151)」
ここに登場するロイズ家が設立したロイズ銀行は現在のロイズTSB、バークリー銀行は日本では一般的にバークレイズと訳されている。ロイズTSB(英国4位)もバークレイズ(英国3位)も名門中の名門として知られ、特にバークレイズは時価総額で世界ランキング10位に位置付けられている。現在の英国金融界の「ビッグ4」と呼ばれる内の2行の原点は「クエーカー銀行」だったのである。私がクエーカーに関心を持ったのもこのことを知ったからである。
■クエーカー実業家輩出の背景
クエーカーは現在でも世界中でわずか100万人程度の信徒数しかいない。このキ
リスト教でもマイナーな存在に位置付けられるクエーカーは傑出した実業家を輩出す
る。この背景を山本通は次のように分析している。
1、クエーカー派の担い手の社会的構成
クエーカー派の家系の多くは17世紀後半ないし18世紀前半に始まるが、その時期に入信した人々は中産的階層に属し、新興工業都市の手工業者や商人であった。クエーカー派指導者たちのメッセージや職業倫理が、これらの社会層に適合した。
2、実業界へのクエーカーの集中
1828年における「審査法(The Test Act)」廃止にいたるまで、クエーカーを含めた非国教徒達は公職から排除されていたために、彼らの才能やエネルギーが、もっぱら実業界に注がれることになる。当時、非国教徒達は、公務員、国会議員、市会議員、軍人などの支配者層の職業に就けなかったばかりでなく、オックスフォード、ケンブリッジ両大学と、いわゆるパブリック・スクールへの入学も許されていなかった。そこで非国教徒達は独自に教育機関を設立し、科学・技術教育や実務教育が重視した。
3、クエーカー派の職業倫理
17・18世紀のクエーカー派の指導者達は、勤勉、正直、自己審査、質素、慈善などの諸徳目の実践を信徒達に勧めた。その実践は信徒自らが霊的資格をもつことを示すことより、世間に対するクエーカーの評判を維持するために、全国的規模で形成された教会組織を通して強制された。
4、クエーカーのファミリー・ネットワーク
(クエーカー家族間の強力な結合関係)
クエーカーは教団以外の者と結婚することを禁じられ、この禁制を破ることは破門を意味した。この結果形成されたクエーカー諸家族間の結合関係のおかげで、クエーカー実業家達は資本の調達や企業経営に有用な情報の入手に関して、特別に有利な立場となった。
5、教会業務集会の情報交換機能
月会、季会、年会といった教会業務集会の開催が、クエーカー実業家達の情報交換の機会を提供した。
以上の山本通が示した5項目のいずれもが日本に共通していることがわかる。特にクエーカー家族間の強力な結合関係と、その内部における情報交換機能は日本の門閥や閨閥にあてはまるばかりか、金曜会(三菱)、二木会(三井)、白水会(住友)などの財閥系企業グループを支える社長会に通じるところもある。
日本の戦後産業史を見る上で鉄道業や鉄鋼業の果たしてきた役割を考えれば、クエーカー思想が英国から米ペンシルベニア州に拡がり、そこで新渡戸や内村によって神道と融合しながら日本に到着し、天皇家と交わりながら憲法第九条を生みだし、戦後日本経済の発展に大きく寄与したと見ることもできる。
一方で、クエーカーによって世に出た鉄道業は皮肉にも日米を戦争へと追い込む一因となった。このあたりの背景を次回からじっくりみていきたい。現在につながる世界的なビッグ・リンカー達の原点がここに存在するのである。
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