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忘れ去られたアジアとの共感(1)
2002年08月30日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
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今年は日中国交30周年。思い出すのは30年前の北京空港に降り立つ田中角栄首相とそれを迎えた周恩来首相の表情である。「もっと早く会いたかった」。熱い思いを秘めたアジアの両雄の視線があった。
それから6年後。日本と中国は日中友好条約の締結にこぎつける。1978年8月8日、園田直外相が条約調印のため北京を訪れた。西部読売新聞は「人ありて 頭山満と玄洋社」という昨年の企画記事の中で驚くべき秘話をスクープしていた。
園田外相を乗せた政府専用機が北京空港に降り立った時、中日友好協会会長の廖承志氏が、乗り込んできて「頭山さんはどちらですか」と一人の人物を捜した。政府専用機には戦前のアジア主義の大御所、頭山満の孫にあたる頭山興助氏が外相秘書として乗っていたのである。
頭山満は明治、大正、昭和を生き抜いたアジア主義者である。福岡に政治結社「玄洋社」をつくり、人を育て、アジアの革命家を陰に日向に支援したが、極東裁判では「超国家主義」のレッテルを貼られて、歴史から姿を消している。
廖承志氏は中国共産党の幹部。その幹部が日本国代表の園田外相を差し置いて「超国家主義者」の孫を捜したのだから、周囲は驚いたに違いない。
この逸話の意味を理解するには時間を一世代、ニ世代前に戻さなくてはならない。
まずは、廖承志氏である。父親の廖仲ガイ(りっしんべんに豆)は中国革命を推し進めた国民党創設者である孫文の側近の一人だった。父子が国民党と共産党に分かれていたわけではない。中国の独立と近代化という同じ目標に向かって国民党と中国共産党が「合作」した時期もあり、両党は同根といえなくもない。
孫文は日本に2度ほど長期滞在した。初めは1890年代。まだ無名だったが、宮崎滔天(とうてん)らアジア主義者たちの知遇を得た時代だった。当時の日本には変法運動に失敗して亡命していた康有為や梁啓超ら清朝の重臣がいただけでなく、排満興漢を目指す数多くの中国人革命家たちが拠点を置いて活動をしていた。
次の滞在は1912年からほぼ3年にわたる亡命時代。孫文は1911年、辛亥革命に成功、大総統に就任するが、間もなく袁世凱にその地位を追われ、亡命を余儀なくされたのだった。大総統への就任直後の来日では官民挙げての大歓迎を受けたが、亡命者、孫文に日本政府は冷たかった。そんな折りに住居をあてがい、身辺警護までして中国の刺客から孫文を守ったのが頭山満だった。
1927年、南京市郊外での国葬で、頭山満は孫文の棺を担いだ一人でもある。当時の国民党の人たちがいかに頭山満という人物を大切にしていたかというエピソードのひとつである。
廖承志氏が父親から「孫文が頭山満氏に大変世話になった」ことを聞かされていたことは間違いなく、随員にその孫がいることを知って心ときめいたことは想像に難くない。そうでなかったら、このように外交儀礼を欠くようなことをするはずもない。
「日中友好」と声高に叫ぶことは簡単なことである。西部読売新聞の企画記事を読んで感銘したのは、日本と中国との間に脈々と語り継がれてきた「絆の時代」を再発掘してくれたことである。
実は明治末期から大正初期、つまり1890年代から1910年代にかけての日本には中国だけでなく、フィリピンやベトナム、インドネシアなどからも多くの志士たちが日本にやってきたのだった。フランス植民地のベトナムからはファン・ボイ・チャウが祖国を脱出。ついでグエン王朝の流れをくむクォンデ侯も石炭船に乗って密航してきた。グォンデ侯はベトナム人を日本に留学させる「東遊(ドンズー)運動」を興し、約100人の青年が日本留学を果たした。グオンデ侯は1939年、南部中国にいたベトナム人たちを結集して「復国同盟会」を組織、日本の仏印進駐時には側面支援した人物でもある。
スペインに対する独立運動を指揮したフィリピンのリカルデ将軍は、その後の支配者となったアメリカに追放され、1915年、流刑先の香港から密かに来日した。それに先立つ蜂起ではアギナルド将軍が日本に対して武器の支援を要請してきた。ビルマからは1907年、ウー・オウッタマという仏僧が西本願寺の大谷光瑞法主を頼って来日した。オウッタマが属していた青年仏教徒連盟(YMBA)はイギリスの支配下で、宗教を隠れ蓑に民族運動を指導していた。またインドからは総督暗殺に失敗して指名手配となったラス・ベハリ・ボースも詩人タゴールの親族と偽って日本に密航した。
当時の日本はあたかもアジアの革命家たちの梁山泊のようなものだったが、背景には日露戦争の勝利とアジア開放に熱い思いをかける数多くの日本人がいたことを忘れてはならない。宮崎滔天、犬養毅、内田良平、相馬愛蔵・・・。アジアの苦悩に思いをよせる多くの日本人がいて、この国にまだアジアとの共感があった時代のことである。
アジアとの共感の裏には、西洋列強による苛酷な植民地支配があった。第二次大戦にいたる過程で、日本もまたアジアを支配する側に立つのだが、それまでにはまだまだ時間があった。「西洋列強とアジアとの対峙」といえば大時代的かもしれないが、時代認識としてそうした地政学的構造があったことを踏まえておかなければ、この時代の歴史は語れない。そして実際に当時、列強と対峙できたのは日本だけであった事実もまた忘れてはならない。本来、西洋列強の侵略からアジアを守る中核となるべきだったのは中国だったはずであるが、その中国が弱体化したあげく、英仏独露の餌食となるばかりだった。
話を孫文に戻す。辛亥革命は1911年10月10日の武昌起義がきっかけとなった。中国語で「蜂起」のことを「起義」といい、孫文はそれまで幾たびか「起義」に失敗していた。1900年、広東省恵州での起義の突撃隊長は山田良政という日本の民間人だった。津軽生まれで、上海の東亜同文書院で教鞭をとっていたところ、孫文の中国革命に共鳴して蜂起に参加した。そしてそれは中国革命における最初の日本人犠牲者だった。
津軽藩は東北地方では珍しく尊皇攘夷派で、進取の気性に優れ、ジャーナリストの陸羯南を生んだ土地柄である。弘前市の山田家の菩提寺貞昌寺には孫文の揮毫による山田良政の頌徳碑があり、「その志、東方に嗣ぐものあらんことを」と書かれてある。慰霊祭には、歴代の中華民国の日本代表からメッセージが届く。日本各地にあまたある孫文の足跡のひとつとして弘前市が誇る史跡でもある。
西部読売新聞「人ありて 頭山満と玄洋社」
http://kyushu.yomiuri.co.jp/genyou/frgenyou.htm
山田良政の物語は宝田時雄氏の「請孫文再来」に詳しい。
http://www.thinkjapan.gr.jp/~sunwen/
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