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アメリカで慈善スポーツが人気の理由

2002年08月13日(火)
ジャーナリスト 大前 仁


 私は過去3年間、当時住んでいたワシントンDCで開かれたエイズなど難病患者救援を目的とした基金集めの慈善スポーツ大会に毎年一度づつ参加した。慈善スポーツというとソフトな語感があるが、最初の2回が全行程500キロ以上の自転車ツアー、最後がフルマラソンという過酷な内容だった。また、ともにレースへの出走に先立ち、2000ドル(当時は約25万円)近くの基金集めを義務付けられた。

 自らが慈善スポーツ大会に出場してみて、米国における慈善活動への取り組みを目の当たりにできた。今回は米国で近年盛んになっている市民参加型の慈善スポーツについて考察してみる。何故、人気を博しているのだろうか。

 第一の理由には、欧米社会で慈善活動への参加が伝統的に尊ばれていることがある。米国人が進学や就職する際には、職務経験や学歴だけでなく、どのようなボランティア活動に従事していたのかも、人物評価の重要な要素とされる。私は自分が参加するだけでなく、数年前に慈善スポーツ大会について取材したことがあった。その際に、大手の会計監査事務所だったアーサー・アンダーセン(エンロン疑惑で不正会計に加担した、あの会社)が、一定の役職以上の社員に様々な慈善事業に寄付するための予算を与えていることを知って驚いたものだ。

 二つ目には米国民の間で健康への願望が強まっており、健康の観点から慈善スポーツに参加する人も多い。マラソンや長距離レースに参加することで、頑強な体を作りたい。レース本番までの練習を通じてスリムになりたい、との願望が強いのだ。これは多くの米国民が深刻な体重オーバーに悩んでいる現状とも関係していると思う。

 三つ目は米国が個人主義・能力主義の国であることとも関係している。「個人が何を達成したのか」「どのような困難を克服したことがあるのか」という事柄が尊ばれる土壌がある。従って、過酷なレースを完走したような人物は、己へのチャレンジ(挑戦)をクリアできる精神力を持つとして高い評価を得るのだ。

 四つ目は当然ながら、米社会でのエイズへの意識が高いことにも起因している。エイズの発病を防ぐ医療の発達や、感染予防の知識の広がりを受けて、米国内では以前と比べるとエイズの脅威は弱まっているようだ。しかし、日本などと比べると、より多くの米国人がエイズで家族、友人、恋人を亡くしており、エイズを「身近な問題」として捉える意識が強い。

 最後の要因は、これらの慈善スポーツ大会の主催者が、初心者でもレース当日までに鍛錬できるトレーニング・プログラムを提供していることだ。例えば、私が参加したマラソン大会のエイズ基金プログラムは、素人でも6カ月かけてマラソンを完走できるプログラムを用意していた。また、上記の自転車ツアーの主催者は「(ツアーの走破は)不可能でない。あなたでも達成できる」というキャッチコピーを掲げて、初心者の参加を奨励している。

 さて、ここまで書いてみると、慈善スポーツ大会では「良いこと尽くめ」のように響かないでもない。それでも、幾つかの問題点も抱えていると思う。その最たるものは、成功要因の項で最後に取り上げた初心者が多く参加することだ。適切なトレーニングを積めなかったために、ツアーやレースの当日に悲惨な目にあう参加者も少なくないのだ。主催者側のコピーがうたい上げるように、「誰にでも達成できる」わけではない。当日までに相応の練習を積まなければならないのだが、それが見過ごされがちなのだ。

 私の友人の一人は、自転車ツアーで完走できない参加者が多いことについて、「だいたい、米国人は調子のいい事を口にし過ぎるよ。それでいながら、地道な努力が出来ない連中が多いのだ」と嘆いていた。(ちなみに、その友人も米国人である。)これは少し大げさだろう。しかし、私が自転車ツアーに参加した2000年は、米国のバブル経済がはじける前だった。株価が天井知らずで上がり続け、成功が簡単に手に入った時代。そこでは、個人が「自分さえ信じれば、何でも達成できるのだ」と疑わない風潮があったのは事実だ。

 さて、まとめに入る。この項は「慈善スポーツは誰のため」との表題にした。当然のことながら、多くの参加者は最終的には「自分自身のため」に慈善スポーツへ参加しているのだろう。私自身もそのような動機付けだった。感動や達成感を味わうために過酷な練習を積んで、当日のレースに臨んだ。そして、沿道の歓声や応援、差し入れに励まされ、時には涙ぐみながらも、自転車を漕ぎ、自分の足で走った。

 多くの米国人も自分に勝つことが、社会の役に立つと信じて、重い足でペダルを漕ぎ続けた。また、痛む膝を引きずりながら、足を前に進めることを止めなかったのではないだろうか。そのように思えてならない。

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