「黄砂災難」が過ぎ去り、北京は絶好の観光シーズンに入った。大型連休のゴールデンウィークを待つこともなく、地方や海外から観光客が集まってくる。7年後の夏季五輪に備え、北京が今まで以上に市街の美化に注力しているためか、今の北京は観光客の目にも何時もより明るく映る。
しかし、紫禁城近辺のフートン(胡同=路地)に一歩踏み入ると、異様な風景に遭遇する。老朽化した四合院は旧態依然だが、灰色の壁に所々「折」(「斤」の右足に「丶」がある)と白い字で大きく書かれている。「解体」という意味の漢字だが、ここは間もなく解体され新しい建物が建つことになるのだ。数百年も北京の波瀾の歴史と共に生きてきた「老北京」文化のキャリアも間もなくこの世から消え失せる運命になる。
これは急ピッチで進んでいる「老北京」解体のひとこまに過ぎない。古都のあちらこちらでフートンが消え、四合院が平地になる。そして、高速道路などの建設で貴重な古跡も壊されてしまう。
北京政府は、市内のフートン25ヶ所を特別保護区と指定し、修繕しながら昔の風貌を残そうと必死だが、それ以外の地域にはほとんど手が回らず解体を容認せざるを得ない状態だ。そして、保護が優先されると言いながらも近代化を要求される北京には、どうしても多くのフートンを無くし高層ビルを建てるための土地が必要なのである。
1949年10月1日、30万人の群集を前にして毛沢東が北京(当時は北平と呼ぶ)の天安門で建国宣言を行っていた時も、揚子江の南側に追い込まれた国民党軍は米式戦闘機による空爆を諦めていなかった。しかし、将軍達の再三の請願にも関わらず、蒋介石はついに命令を下さなかった。彼は、俺は項羽にはなりたくないと呟いたという。
項羽は秦を攻め落とした直後、始皇帝が造営した華麗な宮殿・「阿房宮」を焼き払った。その火の手は三ヶ月間、止むことを知らなかったと史記は記している。蒋介石は毛沢東を生涯の敵として討伐に手段を選ばなかったが、北京の名勝古跡が戦火にまみれるようなことを恐れていた。これに先立って、北京に駐屯している国民党軍の最高司令官である傳作義が武力抵抗を放棄し、無血入城を解放軍に許したのも、同じような配慮があったからだと言われている。
しかし、戦火をくぐって生き延びた老北京も平和の建設ラッシュで跡形もなく消えつつある。50年代にはスターリンの都市建設思想に影響され、荘厳な城壁の解体が始まった。人海戦術であっという間に城壁が消え失せてしまい、今はその跡地が環状道路に変身している。昔、俗に言った「里九外七皇城四」の20ヶ所の城門も今は天安門、正陽門(前門)、徳勝門の3つだけが辛うじてその姿を保っている。
2008年の祭典・北京五輪に来る世界の観客の中にはスポーツを観戦するほかに老北京・古都北京をこの目で確かめたい人も少なくないはずだ。しかし、残念ながら彼らが目にできるのは博物館や特別保護区といった人工的な老北京に過ぎないであろう。(2004.04.12)
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