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38年目の日本の高速道路(1)--有料化の発想
2001年11月23日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄

 小泉内閣の特殊法人改革がようやく途に就き、日本道路公団など7法人の民営化方針が決まった。毎年3000億円という国費投入は来年度からやめることになり、9392キロという整備計画や50年という借金の償還期間の短縮など具体策の検討はは第三者機関に委ねられることになった。しかし喜んでいる場合ではない。これは改革の入り口にしかすぎないからだ。

 日本の高速道路建設については1999年6月に「36年目の日本の高速道路」というコラムを3回続きで書いた。40年前の日本の道路事情や有料制になった経緯など今となっては笑えぬ話もないではない。参考までにこの連作コラムを今日から掲載したい。(開通キロ数など数値は新しいものに変わっています)

 ●速さが夢と希望を与えた名神高速道路

 日本で初めて高速道路ができたのは38年前の1963年7月だった。神戸と名古屋をつなぐ名神高速道路190キロうち、まず尼崎市と滋賀県栗東町の間の第1工事区間71キロが開通、日本のモータリゼションの幕開けとなった。

 高度成長の最中とはいえ、マイカーという言葉が生まれたばかり。サラリーマンにとって安い軽自動車でさえ年間所得の10倍以上もしたし、今日のようにだれでもが手軽に週末のドライブを楽しむようになれるとは思っていなかった時代である。

 以降、高速道路の建設は全国で着々と進み、現在、総延長距離は日本道路公団が管轄する高速道路だけでも6000キロを超えている。

 1960年代に着工したのは、名神だけではない。中央高速と東名高速、そして東京と大阪それぞれ首都高速道路と阪神高速道路の着工も始まっていた。日本経済が急角度で成長し、ヒトやモノの高速でしかも大量移動が求められた。

 ほぼ同時期に完成し、世界一速い鉄道となった東海道新幹線は「夢の超特急」と名付けられた。東京オリンピックや大阪万博など国際的イベントも多く、国土建設が急がれるなかで「速さ」が国民に夢と希望を与えていた。

 日本の高速道路史で特徴的なのは、初めから有料道路制を導入したことだった。有料道路はいまではアジアを中心にかなり普及し、当たり前のように考えられている。しかし、当時の先進国のアメリカの州をつなぐ高速道路やドイツのアウトバーンには料金を徴収する発想はなかった。

 日本では戦後復興期には、一般国道の建設さえままならず、苦肉の策として道路財源にガソリン税を充てることが決まっていたが、あくまで国道の建設資金で、高速道路に国費を使うという発想はなかった。

 ちなみにガソリン税を道路建設費に充てるための法律名は1953年の「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」である。この法律は「臨時」だったため、58年に廃止され、同年成立した「道路整備緊急措置法」に引き継がれ、現在にいたっている。

 萬晩報が再三指摘してきた戦後日本特有の「臨時」や「緊急」といった法律の概念が40年を経たいまでもガソリン税の考え方の中に生き続いていることを指摘しておきたい。

 ともかく、本来、無料であるべき道路の通行に「お金を取る」ことに対して国民からの反発は予想以上だった。

 1956年、日本で初めて有料道路となった静岡県の「伊東道路」では通行料徴収ゲートではこんなやりとりもあったという。

「おまえら、なんでこんな山の中で追いはぎみたいに金を取るんだ」
「国の法律できょうから有料道路になりましたので」
「法律ったあなんだ。何の法律だ」
「道路整備特別措置法です」
「バカ。そんな法律は聞いたことのねえ」
「とにかく、お金を払っていただかなければここを通すわけにはいきません」

 40年前の国民の有料道路に対する認識はこの程度だったのである。もっとも道路整備特別措置法では、有料といっても30年たって建設資金を返済しおえたら、一般国道と同様に無料で開放することになっていた。

 ●建設を支えた世銀資金と郵便貯金

 そんな国民の認識の一方で、高速道路建設に対する緊急性も高まっていた。高速道路に関しては日本の道路事情を酷評したアメリカの「ワトキンス報告」が決め手となった。

「工業国でこれほどまでに道路網を無視してきた国はない。統計によると日本の一級国道であるこの国の最も重要な道路の77%は舗装されていない。この道路網の半分以上は、かつて何の改良も加えられたことがない。しかし、実際の道路は統計よりももっと悪い。悪天候では通行不可能な場合もある。交通はたえず、自転車、歩行者、荷牛馬車により阻害されることがはなはだしい」
 事実、幹線だった東海道は当時ほとんどが未舗装だったから、日本の道路事情がこのように酷評されたとしても不自然でない。

 高速道路の建設での課題は、有料制といってもどこから資金を調達するかという問題だった。まず郵便貯金の貯金を財源とする財政投融資があてがわれ、不足分は国際的支援を仰ぐことになった。そして路線ごとに30年で借金が返済できるように通行料金が決められた。

 戦後の日本の国土建設にこの財政投融資が果たした役割は計り知れない。いまでこそ銀行はサラリーマンの住宅資金として30年内外の融資をするようになっているが、当時の普通の銀行には、国がつくる高速道路とはいえ返済期限が30年などという長期の融資はなかった。そもそも戦争で国家に金を貸して貸し倒れになった痛い経験をしたばかりだった。郵便貯金という「国営銀行」が豊富な資金供給源となってはじめてインフラ整備ができたという側面も否定できない。

 世銀からの借り入れは苦労の連続だった。1957年、ブラック世銀総裁が来日した際に電力や鉄鋼、高速道路の建設に280億円(7800万ドル)の融資を申し出たのが始まりだった。

 ワトキンス氏によるこの「信じがたいほどの悪さ」という報告が日本の道路整備の緊急性を訴えた形となったという。結局、名神高速では総建設費1148億円の25%に当たる288億円(8000万ドル)を世銀に頼ったし、東名でも同3425億円のうち4次にわたり総計1080億円(3億ドル)の融資を受けた。ご存じのように当時の為替レートは1ドル=360円だった。

 当時の世銀の資金規模や貨幣価値からいえば、日本の高速道路に対する4億ドル近い融資は「かなり冒険的」だったようで、融資に際して多くの条件がつけられたのは当然のことである。(続)

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