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田中康夫氏の知事選勝利で思い出した桐生悠々

2000年10月16日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄

 09月23日付萬晩報「日本を変えたイレブンと金融トップの自殺」で長野知事選での田中康夫氏の活躍を期待したいと書いた。よもやと思ったがそのよもやが起きた。田中氏が58万票に対して次点の池田典隆・前副知事は47万票と予想外の大差がついた。昨夜、この結果を速報で聞いて長野県民がうらやましく思った。うらやましく思うのはこの1カ月県民の多くがわくわくするような時間を過ごしただろうと想像したからだ。

 ●田中知事を支える議員育成が課題

 田中氏の力量については誰もが不安を持ちつつも、県民が「変化」を求めてその通りになった。田中氏にとっても県民にとっても正念場はこれからだ。

 まず長野県民に求めたいのは性急な結果を求めてないけないということだ。まず、県議会議員の多くが土建屋体質を維持したままで、いまの県政がそう簡単に変わるとは考えられない。そして何よりも長年のカルテル的治世によって多くの県職員が旧世代の基本ソフト(OS)にフォーマットされたままであることを理解しなければならない。

 変革にはトップの交代は不可欠であるが、アメリカと違って長年、日本では官僚が多くの政治的な意思決定に関わってきたため、一夜にして変革がもたらされるわけではない。

 官僚の仕事のやり方はそう簡単には変わらないし、議会と結託して知事のリーダーシップを棚に上げて行政を執り行う性癖は何も中央官庁だけの話ではない。むしろ地方官僚の方が変革に対して頑固に抵抗するものなのである。

 そうした状況で性急な結果を求めれば、落胆しか待ち受けていないことをまず知るべきである。自分たちで選んだ首長を長い目で育て上げるくらいの余裕がほしい。むしろ来るべき次の県議選で田中知事を支える政策集団を輩出できるよう準備を怠らないことである。

 ●信毎社長に請われて信州入りした桐生悠々

 田中氏は長野県の地銀、八十二銀行の茅野実頭取に請われて知事選の出馬を決意した。このことを関連して、明治43年(1910年)、信濃毎日新聞の小坂順造が金沢の生まれで東京朝日新聞にいた桐生悠々を主筆として招いた古い話を思い出した。ほぼ一世紀前のことである。名声を博した山路愛山の後任主筆だった。

 驚くなかれ当時の信毎の発行部数は2万部足らずで、現在の萬晩報よりも少ない。山路愛山のころはたったの6000部しか発行部数のない新聞だった。悠々はそこで「二三子」「べらんめえ」というコラムを持ち、歯切れのいい筆致で信濃毎日新聞の発行部数の倍増に貢献した。

 信毎の第一声は「入社の辞」と題したコラムだった。

「文明の主義は一変せり。現在主義を放れて、未来主義に移れり。現在の向上を以て諸般の社会的制度を律せんとする主義は最早時代遅れとなりて、来るべき未来の発達を理想とする主義こそ、即ち現に来たりつつある第二十世紀を支配する唯一の思潮たるらめ」と書き、イギリスの功利主義やマルクス、ニーチェをも時代遅れと喝破した。なんとも自意識の強い論説家の登場だった。

 井出孫六著「抵抗の新聞人 桐生悠々」によると着任早々の信毎の読者欄にはファンからこんな投稿があったという。

「こんど来た悠々とか申す筆豆の男、来る早々県下の教育や県政に難クセをつけやがる。長野県のような議論好き、イヤサ屁理屈好きの土地にこんな議論好きの男が来ては、いよいよもって議論好きになるから困ったものだわい」

 悠々は日々の記事やコラムだけでなく、県内各地から呼ばれて県民との討論を楽しんだ。悠々が感動した信州の県民性はこういうものだった。「信州青年は知事などの訓示的演説を聞くと『何だ、官僚が』と言って、これに何等の敬意を払わなかったにも拘わらず、新聞記者の講演には敬意を払って傾聴した」。

 なるほど田中氏も二週間の選挙戦で県民との対話を通じて、同じことを考えたのではないだろうかと想起した。これからは長野県民だけでなく、日本全体をわくわくさせる田中康夫であってほしい。


 【参考】
 2000年09月23日 日本を変えたイレブンと金融トップの自殺
 2000年01月09日 桐生悠々と個人雑誌「他山の石」
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