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有夢最美 台湾の子・陳水扁物語

2000年04月21日(金)
台湾研究家 船津宏
 ●その1 赤貧之子

 陳水扁氏が台湾の第10代総統(大統領)に決定し、来月(5月)20日には就任式に臨む。1951年台南県官田郷西庄(荘)村生まれの陳氏は今年49歳。50年前、大陸の共産党に追い出され、台湾に逃げてきた国民党の一党独裁支配を、初めて打ち破る快挙を成し遂げた。平和的な政権交代は、大陸の民主化闘士にとっては、羨ましく、かつ自らの国の後進性を印象づける事件だ。

 日本の新聞論説に出ることはないが、「大陸の民主化進展を揺さぶる」ことは間違いない。大陸でも世界を知っている人は、台湾のような政権交代が中共にも必要だと思っているはずだ。就任式1カ月前のこの機会に彼の足跡を辿ってみたい。彼のニックネームは「阿扁(あぴやん)」、夫人は「阿珍(あちん)」。文中でも必要に応じてこの名称を使いたい。

 3月19日付「中時晩報」に「官田赤貧之子 締造緑色奇蹟」の見出しが躍った。陳氏の人生を端的に表現する色は、「赤」から「緑」。「赤貧洗うがごとし」という言い回しがあるが、同氏は「赤貧の子」と形容され、そうした境遇の子供が不断の努力で社会の階段を駆け登り、「緑色の奇跡」を起こしたと表現される。

 陳氏の不遇な出生環境はそのまま、台湾の不遇な状況をイメージさせる。「台湾に生まれた悲哀」(李登輝)はまさにこれだ。

 民進党のテーマカラーは緑。リンカーンは丸木小屋からホワイトハウスへ入り、アメリカンドリームと呼ばれるが、貧しい生まれで、政治犯として刑務所に送られた人生を持つ阿扁は、今年「台湾ドリーム」を実現、人々に希望を与えている。

 貧農の出身。父親は小学校卒で小作農。ブタなども飼っていたという。母親は字もろくに読めない。生活保護レベルを示す「第3級」に認定されるほどの極貧ぶりだったという。家計は赤字続きで、母親は知り合いの家から毎月借金を重ねていく。小学校に入るまで文字の勉強さえできなかった陳少年は、母親の借金の額を家の壁にチョークで書き遺すため、アラビア数字だけを覚えたという。先ごろ放映されたNHKスペシャル「(台湾)政権交代」では、阿扁のこうした紹介が欠けていた。

 小学校に入った彼は、貧乏から脱出しようと勉強に精を出す。努力の成果を出し、成績トップに躍り出る。先生からも誉められ、表彰状をもらうような存在となった彼はさらに猛勉強を続ける。

 中学、高校と学校で一番の成績を取り続け、「台湾の東大」、難関中の難関とされる台湾大学に1969年に入学する。大学に入っても成績はつねにトップ。そんな彼についたあだ名が「第一名(あいつが一番、ミスターナンバーワン)」「永遠第一」だ。

 台湾中のエリートが集まる台大の中でも学友たちが「陳にだけは勝てない」「あいつは何をやらしても1番だ」というため息まじりのニックネームだ。

 そんな60年代から70年代にかけての時代、台湾国内では、国民党一党独裁の政治腐敗が進み、国民の不満が高まっていた。この当時、国民党以外の政党活動はすべて非合法(党外と呼称される)。表立って台湾語をしゃべったり、蒋介石の銅像の前でシャドウボクシングをするだけでも警察につかまったりする時代だった。

 それでも国民党を抜け、民主活動に転じた黄信介氏ら、未来を信じる人々がいた。大学1年時に彼の演説を聞いた陳水扁は、法律・政治への関心を高める。商学系経営管理を一旦退学し、翌年改めて難関の法律系を受験した。その成績が、全受験者中の最高だった。どんな困難も必ず満足のいく結果を出して乗り越えていく彼の姿勢がここからより鮮明になる。

 翌年には、司法試験を受け、全国最年少記録を塗り替えた上、さらに成績トップで合格し、「第一名」のニックネームに恥じない快挙を成し遂げた。

 このころから、彼の人生は大きく好転を始める。ド貧乏から二宮尊徳風の努力でのし上がり、弁護士として働き始めた彼は、小中学校で同窓だった呉淑珍さんと恋愛結婚。担当分野は海商法で、海運・航空大手、長栄(エバーグリーン)の仕事で評価され、高い収入を得るようになった。経済的にやっと一息つける生活に近づいていた。

   ■陳水扁キーワード集
キーワード
解  説
台湾の子 震星出版から250元で発売の自著は、特製CD「少年台湾」付き。ドラゴンアッシュ顔負けのヒップホップ系、ラップ系、合唱組曲系ありの16曲入り。筆者は、デーブメイソン風泣きのギターが入る「歓喜看未来」がお気に入り。
呂秀蓮 副総統。カーター元米大統領と会談した時「あなたのおかげで台湾の発展が遅れた。台湾人に謝罪する気持ちはないか」と流暢な英語で詰め寄る。大国VIPにも堂々と物が言える女性政治家。カーター時代に米国は台湾を捨て、中国と手を組んだ。
民進党 13年前は非合法。「中華民国」へのこだわりなく、「台湾共和国」を志向。党旗は緑色で東洋のスイスをイメージし、十字の中に台湾を示す。
呉淑珍 大学時代夫人と恋愛結婚。雨の台北駅で立ち尽くす夫の姿に感動した夫人は将来を託すことを決める。
乾燥きゅうり 弁護士になって依頼者から台湾珍味「からすみ」をもらったが、貧乏な阿扁はそれまで食べたことも見たこともなかった。「乾燥したきゅうりをもらったけど」と夫人に語った。
大型冷蔵庫 夫人の家に入って白い大型衣装ケースを見た阿扁は「君の家にはりっぱな冷蔵庫があるね」と語る。乾燥きゅうりの話しとともに後に夫人がおもしろおかしく話したので有名。
黒金政治 民進党からみて国民党は暴力団(黒)と金権政治(金)の巣窟。改革のためには、国民党以外の人間が必要と訴えた。
228事件 1947年、外省人と台湾人との対立を決定的にした虐殺事件。97年から国民の休日(平和祈念日)になった。当時、台北市に滞在していた筆者は、国民の祝日が2日前になるまで決定しない事実に驚いた。今でもこの祝日を不快に思う旧勢力がある。

 ここで、ロマンスにも少し触れておきたい。車椅子のファーストレディーとなる奥さんの呉淑珍さんは、同じ台南生まれで二歳年下。同じ小中学校に通う。ところが貧農の陳さんとは違って、父親は県内で広く知られるくらいの名医で資産家。台湾の50年代初頭で、居間にピアノがあり、娘にピアノとバレーを習わせ、家庭教師をつけて育てていた家庭は少なかったが、阿珍の家はそういう家だった。家庭教師の代金は、陳一家の収入と同じくらいだったとされる。

 絵に描いたような貧乏と金持ち。そんな二人が出会ったのが、大学時代に行われた中学校の同窓会のビンゴゲーム大会だったという。夫人は「夫は、ミネラルウオーターのようなものなの。最初は薄くて、味も何もあったもんじゃない。けれど飲み続けるとその滋味が分かってくる。永遠の滋味なのよ」と新総統となる夫を評している。

 貧乏で遊ぶことを知らない陳氏は、最初デートもしっくりいかないが、やがて持ち前の誠実さが彼女のハートをしっかりとつかむ。大学時代も金がなかった阿扁は、夫人との食事でも、大学食堂に誘ったという。そこで清水の舞台から飛び降りた気持ちで注文したのが「学食Aランチ」。大学に入って一度も注文したことのない最高の値段のメニューだったという。涙が出てくるような話しだ。

 固い気持ちで結ばれた二人は、やがて結婚を決意するが、当然のように夫人の父親は反対する。娘には医大出のしかるべき人物と結婚して、病院経営を継いでもらいたかったのだ。

 親の反対を押しきった二人は、新婚旅行も3年後と決め、質素なパーティーだけで済ましてしまう。普通の家庭でも二、三百人と親戚を集めて披露パーティーをするのが常識の台湾では極めて簡素なものだった。

 海商法の弁護の仕事は順調で、陳氏の収入も着実に増えていった。2人がこのまま進めば、それはそれで何不自由ない円満な家庭が築かれていたことだろう。

 しかし、人生は突然の事件で大きく変わっていく。美麗島事件だ。

   ■陳水扁キーワード集
謝長廷 永遠のライバル。高雄市長。陳と実力伯仲。94年台北市長選では、民進党内で候補を競い合い、党内を二分。面子を捨て陳に道を譲った。「長扁の盟」として記録される。文部省奨学金を得て京大留学の親日派。
林義雄 民進党主席。98年台北市長選など連続で負けたことで敗軍の将と呼ばれていたが、今回の総統選で雪辱果たす。年下の陳候補を立てて、自らは裏方に回る手法は玄人筋に好評。家族を暗殺されたが、逆境の中、立ち上がる。
許文龍 ABS樹脂の世界トップメーカー、奇美実業創業者。三菱レイヨンなどとの取り組みの後、独自の技術開発で世界に躍り出る。「釣りバカ」社長としても知られ、天気の良い日には釣りをしていて会社には出ないとか。老荘思想(無為)を体現し、経営。週1回、社員に無料でマンドリン教室を開催する音楽愛好家。
台南 台湾の古都で、港町。陳夫妻、許文龍、連戦も皆ここの出身。地元紙では「200年ぶりに政権が南に戻る」との大袈裟な見出しもみられた。小北夜市の屋台村や、度小月(ラーメン屋)は全国的に知られる。350年前、鄭成功はここで決起、オランダ人を追い払う。
蓬莱島事件 1984年 陳が社長の雑誌「蓬莱島」に載せた論文が有罪に。台北市議を辞職し抗議「光栄入獄 陳水扁」のタスキをかけて刑務所へ行く。出所後、台南県長選に立候補。

 ●その3 美麗島事件

 「美麗島(フォルモサ)」はポルトガル人が台湾をみつけた時に名づけた美称だが、この名前をつけた月刊誌が70年代末の台湾で評判を得ていた。政府を真っ向から批判する内容は、不満の鬱積していた台湾人の心に明るい灯火を点していた。言論による台湾の改革だ。「80年代」という雑誌も同様に評判を呼んでいた。

 しかし、その内容に腹を立てたのが国民党。圧力をかけてきた。「美麗島」出版の黄信介氏は、当局の弾圧に反抗し、79年12月10日、台北市に次ぐ第二の大都市、高雄で無許可デモを決行。

 警官隊との衝突で流血の騒ぎに。主要メンバーは反乱罪として、次々に逮捕されていった。今回副総統となった女性政治家、呂氏もこの時逮捕され、投獄された経験を持つ。独裁国家に言論の自由はなかったのだ。そして、裁判が開始される。

 その裁判の弁護依頼が、よりによって陳水扁のところにやってくる。事の重大さに躊躇する阿扁。そこに夫人は「あなたは何のために弁護士になったのよ。これは台湾の将来を決めるかも知れない大事な裁判。これをやらずして何を弁護すると言うの。できないなら弁護士などやめてしまえばいいのよ」と叱咤激励する。

 裁判の被告席に座らされているのが、大学時代法律を志すきっかけを作った演説をした台湾民主化のリーダー、黄信介氏だったのだ。この人を助けずしてどうするのか。阿扁は燃える。今回の大統領当選後のニュースで、線香の煙たなびく中、墓参りしている陳氏の姿が放映されたが、それがこの黄氏の墓なのだ。

 ●約束された将来捨て、弁護に立つ

 夫人にしても、それが何を意味するかは分かっていた。国民党独裁支配の下、政府に目をつけられた弁護士になど仕事は回ってこない。さらに徹底的に干されることは分かっていた。このまま弁護士家業を続ければ、豊な将来は約束されていた。それを夫婦二人で敢えて困難な道に進もうとした。

 法廷で、謝長廷氏ら有能な弁護士とともに戦った陳氏の論理明解な弁護は評判を呼ぶ。しかし、一般に予想されたように、政府側の一方的な勝利となり、月刊誌編集者たちは監獄へ送られてしまう。ただ、陳氏の弁舌は、際立っていた。「俺達といっしょに台湾の民主化に取り組まないか」月刊誌「美麗島」関係者から声がかかり、陳氏は法律から、政治への道を踏み出すことになる。この集団がやがて、現在の民進党へと脱皮していく。

 この当時、蒋介石がこの世を去り、息子の蒋経国時代になり、政策は変わり始めていた。「ニクソンショック」が原因だ。米国が台湾と縁を切り、中国と手を結ぶ動きに出た。このままでは台湾が危ない。蒋経国総統は、民主国家としての生き残り方を考え始めていた。一方で、既存の弾圧も継続していた。

 台北市会議員選挙に立候補した阿扁は、最高得票でトップ当選。またしても「第一名」だ。蓬莱島事件の後、続いて南部の重要地区である台南県長(知事)選に挑戦した阿扁は、そこで人生を変える事件に再び遭遇する。この地区は日本でいえば、京都や大阪など関西地区のようなもので、国政上も重要な地区。台湾の重要地区で民進党知事が誕生するとは、自民党政府からみて、大阪で共産党知事が誕生するかどうかというような切羽詰まった状況だったろう。

 選挙中、ありとあらゆる嫌がらせが仕向けられる。選挙結果は高得票ながら僅差で落選。台湾では落選した候補者が、「謝票」といって有権者にお礼しながら行進したり、大会を開いたりする習慣がある。

 この習わしに従って、台南県内を謝票行進していた時に事件は起こった。何者かに雇われたと思われる男は、農業用の三輪改造自動車(三輪鉄牛車)で阿珍を引き倒した。「まだ死んじゃいねえのか」気味の悪いことを口走った男の車は、バックしてもう一度夫人の身体を踏みにじった。この事件の黒幕は未だ明らかになっていない。

 阿扁はたまたま少し離れたところにいたため、夫人が狙われたのかも知れないし、気落ちさせるためわざと家族を狙ったとも推察される。

 このひき逃げ事件で、夫人の声はしゃがれ、足腰の自由を奪われ、車椅子の生活を余儀なくされた。瀕死の重傷から生き残り、車椅子のファーストレディーはこのような経緯で生まれた。悲しいが、不屈の闘志を感じる物語だ。

   ■日本への外国人入国者数(1998年)
国名(多い順) 来日人数 人口 人口/来日人数
台 湾 84万人 2200万人 26.19
韓 国 72万人 4500万人 62.50
米 国 67万人 2億5000万人 373.13
香 港 30万人 600万人 20.00
中 国 27万人 13億人 4814.81

 ●その4 ついに台北市長に当選

 数々の事件にも負けない。すでに書いたように蓬莱島事件で、今度は自身がブタ箱に入れられる。「光栄入獄・陳水扁」の反抗的なタスキをかけて入所する写真が有名だ。入獄中、夫人が代理で立候補し、国会議員(立法委員)に当選。台南県長選には失敗するが、その後の立法委員選挙に当選する。

 立法委員として実績を積んだ後の1994年、台湾の事実上の首都(憲法上ではまだ南京だ)、台北の市長に当選する。文字どおり画期的であり、台湾人にとっては夢の勝利だった。台湾全体では本省人(台湾人)の比率は85%。外省人(中国人)は13%程度だ。ところが台北では、外省人の比率は40%くらいに跳ね上がる。

 圧倒的に国民党が強い。この時期までに李登輝総統の時代になり、民進党も合法化されるなど、民主化が進んでいた。しかし、なんといっても国民党の総本山、首都台北で市長の座を取れるかどうかは、最大の政治の焦点だった。

 阿扁は、交通渋滞の緩和、暴力風俗業の取り締まりなどで成果をあげる。4年後の98年の市長選も当然、続投するつもりで、本人も支持者も思っていた。しかしここで、李登輝の必殺技が炸裂する。「新台湾人構想」だ。

 「台湾に元々居た人も、後から来た人もこれからは同じ新台湾人なのだ。わだかまりを捨てて新時代を開こう」と呼びかけた李総統は、国民党の若手のエース、馬英九氏(外省人)を対抗馬に市長の座奪還を企ててきた。

 「新台湾人構想」は、94年、宋ソユ氏が外省人として台湾省長に立候補した時に李総統が使い応援したもので、宋氏自身もよく使っていた。しかし、実際に大きく広まったのは98年の台北市長選挙時のテレビCMだった。

 馬氏は、長身でスマート、顔は俳優並み。女性票も大きく期待できた。台湾大学からハーバード大学へ進み文句のつけようのない学歴。父親は国民党幹部で、何不自由なく育った。蒋総統の英文秘書を勤めるなど政治経験も申し分ない。

 対する阿扁は、背が低く、顔も木訥。台湾の政治家は大抵、欧米の大学に留学し、博士号など数々の肩書きを自慢する。選挙公報をみても、ほとんどの政治家がそうだ。しかし、阿扁だけは書く経歴がない。学力はあっても金がなく、ハーバードやエールに行く余裕などなかったのだ。

 だから、台湾大学卒業と書いて、必ず「第一名」と書いてある。経歴欄を埋めるため文字が「第一名」でもあるようだ。

 漫画「巨人の星」に喩えると、馬英九が花形満で、阿扁は星飛雄馬。98年の台北市長選対決は、あまりに劇画チック、映画ばりの構図だった。

   ■誤って使われている用語集
用 語 正しい日本語訳
一つの中国 中華民国なのか、中華人民共和国なのか、はっきり定義できる人がいますか。はっきり言えないことなら、議題に乗せて話し合うべき。
一国二制度 植民地経営の新名称。香港に次いで台湾という植民地がほしいだけの猫だまし理論。そもそも国とは制度のこと。違う制度なら別の国だろう。
極悪の台独分子 独立がどうして悪いのか、説明不足。反対に台湾にとって統一のメリットがまったく話題にされないのはどうしてか。中国共産党は世界に分かるような説明をするべき。民族自決は世界の流れ。

 ●敗戦演説会で阿扁総統コール

 98年の市長選は、馬氏が逆転勝ちする。ここ一番では負けることを知らなかった阿扁がついに負けた。本人にも支持者にもショックは大きかった。この時、台大医院など多くの病院に、深刻なノイローゼ状態となった陳支持者多数が来院、話題になった。

 「永遠第一」の神話が崩れたのだ。さすがの陳水扁も、老練な李登輝が一枚上手だった。台湾人としてのアピールで売れて来た阿扁が、新台湾人という新しいアピールにやられてしまった。

 悪い事は重なるもの。この時、夫人の父親が危篤となり、一家は里帰りする。その機中で、阿珍夫人は落胆する夫に「台北市民はあなたを台北市長に当選させなかった。なぜだか分かるかしら。目標は2年後の2000年。あなたに総統になってもらいたいと思っている人が多いからよ」と語り掛ける。

 例によって、謝票のための敗戦演説会を開いた阿扁のムードは暗かった。「皆様の応援を無駄にして申し訳ない」鎮痛なスピーチが続く。

 しかし、敗戦演説会場の端から、聞こえてくる声があった。「阿扁総統!」 「次は阿扁総統だ!」。声は伝播し、大合唱になっていく。台北市長に落選したからこそ、次の総統選に挑戦できる。これは神様がわざと落選させて、大統領にするための試練なのだ。??何という都合のいい解釈だろうかと悲観的な日本人なら思う。台湾人の楽天的性格というか、バイタリティーというか感心するほかない。

 しかし、現実はその通りになった。この台北市長選敗北のシーンは、今回の総統選CMでも使われている。荘重なクラッシック音楽のBGMで、白黒画面が敗戦演説会場を映し出す。深々とお詫びする民進党首脳部。泣き叫ぶ聴衆。「扁帽」をかぶった若者。負けたことを逆手に取る強かな戦術は、日本人にはなかなかできない手並みだ。

   ■陳水編キーワード集
李遠哲効果 ノーベル賞受賞者。キュリー夫人は「研究は先進国でしかできない」と言い捨てて、弱国ポーランドを離れ、フランスに居着いてしまったが、李遠哲は台湾に帰ってきた。弱い立場の祖国を見捨てず帰国したことで、国民の熱い支持。 「彼が帰るのなら私も」と有能な若手が帰国し台湾の科学技術振興に多大の効果。選挙戦終盤で、阿扁支持を表明したことから、陳を過激な政治家と敬遠していたインテリ保守層も「李遠哲が支持するのなら大丈夫」と安心して投票に向かう。
扁帽(ぴゃんまお)
オリーブドラブ色でアウトドア感覚、阿扁(Aーbian=あぴやん)のロゴ入りニットキャップ。98年不況の台湾で、ベストヒット商品に。扁杯(ぴゃんぱい=コップ)など多数の関連商品を生む。支持者のマストアイテム。
台湾新幹線 シンガポールなどに比べお世辞にも奇麗とは言えぬ台湾の都市。なぜそうなったのかと言えば、「所詮、台北は仮の首都。いずれ大陸に帰るのでインフラは不要」との意識があった。鉄道はその最たるもの。2005年完成の新幹線は1兆円規模の投資で、インフラ整備に本腰を入れたことを端的に示す。

 ●その5 選挙当日の動き−まるで祭り

 TVBSや民視、中視、華視など台湾テレビ局の選挙前日から翌日までのビデオを取り寄せて、一気に見たが、やはり台湾の選挙はお祭り騒ぎだ。主要三候補の「増勢会場(立ち会い演説会)」が三元生中継されるが、それぞれの候補者の個性が出て面白かった。

 連戦氏(国民党)の会場(中正紀念堂)は、「公務員の顔」をした人が多い。李登輝が声を枯らして連戦への投票を呼びかける。80、90歳とも思われる老人が車椅子から演説する。音楽は古い歌謡曲風で年寄り向きなのは明らか。

 以前、李登輝が連戦バンザイと両手の平を広げて応援していたが、ちゃちゃを入れた反対者が「李は手の平を広げて五本指を出しているだろう、あれは実は立候補番号5番の陳水扁を支持している証拠だ」と言ったことがあったが、投票前日の増勢会場では、ちゃんと二本の指で(連戦の立候補番号は2番)Vサインをしながらバンザイしているのには、思わず笑ってしまった。最初から最後まで両手を挙げる時はVサインだった。

 宋楚瑜氏(国民党から除名され独立立候補)の会場(台北体育場)では、さすが演説得意の宋さんは、マイクを握って話さない名口調。面倒見の良さそうな顔で人気があるのが分かる。会場は、「田舎から出てきました」みたいな人が多い。

 陳氏(民進党)は、台北サッカースタジアムを会場にした。ここは3年前マイケルジャクソンが公演したことでも有名な巨大会場。ここでは、最後の場面になるまで陳本人がまったくステージに出てこない。演説するのは、作家、医者、弁護士、教育者、学者など知識人が多い。

 外省籍二世の著名人も多く出てきて、陳イコール台湾人という構図はもう終わていて、外省籍の人も支援していることが分かる。そうでないと、当選するはずがない。それぞれ有名な人ばかりらしく、陳水扁がいかにいいかを語り尽くす展開だ。

 ある応援者が「朱鎔基のようなヤクザのいいなりにならず、陳水扁を選ぼう」とやった時の会場の盛り上がりが面白かった。

 人本教育文化基金会の代表はこう語る。「子供がテレビを見ていて聞くんだ。『このやくざみたいなおじさんは誰なの。外人のくせに、なぜこんなに偉そうに台湾のことを話しているの』 テレビには朱鎔基が映っていました。」(会場爆笑)

 また、女性の代表はこう言った。「朱鎔基に脅されて、支持を変えますか。そんな父親、母親がどうやって子供に正しい行いを教えることができるのでしょうか。脅されて信念を変えるような人に、子供の教育はできません」と。

 「朝日」など新聞の論調で欠けているのはこの部分だ。「国連常任理事国の体制は..」「一つの中国は..」「アジアの安定のため..」などいろいろ言うのは勝手だが、虐げられる台湾の子供たちの人権はどうなるのか。

 日ごろ、殺人者や過激派、日本在住の不正入国外国人の人権には必要以上ともいえる配慮をみせているのに、中国の発言によって心のケアが必要となる台湾の子供たちへの配慮は「朝日」にはまったくない。

 政治バランスの理屈だけで、論評するのはいいかげんにしてもらいたい。「統一か独立か」の争点だけで選挙が行なわれたように報道されたが、決してそうではない。人間、金がもらえるかどうかだけで人生を決めているだろうか。愛やプライドや、将来の夢を満足させてくれるかどうかが、むしろ問題ではなかろうか。夢のあるリーダーを台湾の人たちは選んだといえる。

 ●選挙CM合戦も相当面白い

 テレビCMや新聞CMも面白かった。敵方が批判してくれば、すぐさま翌日には対抗CMが出る。有権者は面白がって見ている。

 連戦側の「陳さんが言うから戦争へ行こう」のネガティブキャンペーンはやはり暗い。陳水扁の長男が来年軍隊に行くのを当てこすったCMもあった。知能のある人がこういう宣伝を見せられると侮辱されたと思うだろう。実際そういう人が反連戦になった。中国の軍事威嚇も同じ。こんな奴等を相手にするのなら、やはり台湾人の気持ちに立ってくれる人がいいと民衆は思ったはずだ。

 それに比べ民進党のCMは、米国大統領選キャンペーンCMとも比較できるさわやか調の仕上がり。自転車に乗り、笑いかける少女や、一家円満の家庭、水田で遊ぶ子供など台湾の風景が連続する。CMの前半で登場する人物は実はすべて陳氏の親戚だという。

 第二バージョンでは、ノーベル賞受賞者李遠哲が、「類は友を呼ぶのです。彼らはこういう連中と仲間なんです」と呼びかけ、連氏や宋氏の演説会場の端に移っている悪人物を赤丸で囲んで指摘するネガティブキャンペーンなのだが、仕上げがスマートだ。

 第三バージョンは、支援する有名人がワンカットずつ登場するもの。パソコンのトップメーカー、エイサーの施社長などが登場。ABS樹脂で世界のトップメーカー、奇美実業の許文龍社長が、バイオリンを優雅に弾きこなす姿で終わるのが何とも渋い仕上げ。許氏は日経新聞の表彰などで日本の実業界でも知名度が高い。日本の政見放送の無味乾燥と比べ、違いに驚く。

 でもなんと言っても良かったCMが「艱困中成長的人 有最美好的理想(困難の中で成長する人には、美しい理想がある)」というたった二行だけの選挙宣伝文。陳水扁の映像は出てこない。それでもテレビを見ている人は誰もが理解する。資産20億円で、中華民国一の美女、ミス・チャイナを嫁に取り、悠々自適の生活をしている連戦や、長男の口座に数億円も振り込ませていつも金払いのいい宋楚瑜などが、「困難の中で成長する人」だとは誰も考えはしないからである。(了)


参考資料
「中国時報」「台湾時報」「自由時報」「中時晩報」2000年3月19日付
「台湾の歴史」 喜安幸夫 原書房
「台湾の主張」 李登輝 PHP
1998年台北市長選・民進党パンフレット「陳水扁物語・乾燥キュウリと大冷蔵庫」
「台湾の子」 陳水扁 晨星出版

船津さんにメールはando@sen-i-news.co.jp


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