日時:2月11日(金)午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

 室町時代、土佐の山間、東津野から義堂、絶海という名僧が生まれた。朝廷から見れば、当時の土佐国は最果ての国、流刑地でもあった。そんなへき地から京都五山文学の頂点を極めた高僧が生まれたから不思議である。五摂家の一つ、一条家が土佐の幡多郡に下向したのは応仁の乱の時だから、時代はもっと後のことになる。そんな土佐の山間で学問の府があったとは考えられない。そんな思いでいたところ、昭和10年代に書かれた「土佐を語る」という本を手にした。
「津野氏は、藤原基経の子、琵琶左大臣の末裔で、延喜のころ藤原仲平の蔵人経高が罪あって伊予に流され、3年後に土佐に入って津野荘を領有し、子孫が羽山城(姫野々白)に據って二十余代、高岡郡に覇を称した家柄であった。この間に盟主出でて文教に心を用い、土佐では夙に文化の進んで領域であった」そうなのだ。
 基経は大納言まで上り詰め、平安時代に藤原家支配を築いた人物で政争を繰り返し、天皇は後継者として菅原道真が登用された。その道真が大宰府に流され、長子の高見は土佐に流刑となった。高見は土佐に多くのものを残さなかったが、藤原基経の子孫といわれる津野氏は土佐に京の文化を伝えたはずだ。
 津野荘はもともと、賀茂御祖神社の荘園だった。潮江にあった荘園が津波で水没したため、津野の地に移ったとされる。そのため津野新荘と命名され、その名はいまも新庄川として残り、駅名にも名をとどめる。実に面白いではないか。(萬晩報主宰 伴武澄)