プロビール・ビカシュ・シャーカー

 一秒間に大事件が起こりうる時の流れのなかで、一世紀という年月は歴史的にも決して短い時間ではない。この100年もの長い間、日本とベンガル地方の間では様々な文化交流が続けられてきた。この文化交流によって双方に大いなる功績が残されたことは疑う余地がないが、残念ながら日本ではこの事実が置き去りにされている。今年、日本ではインドとの国交樹立50周年、バングラデシュとの国交樹立30周年を祝い、各々記念式典が開催され、記念切手も発行された。国交樹立記念はどの国家にとっても重要な国家的記念であるが、日本とベンガル地方の文化交流100年記念はそれ以上に重要な歴史的意義をもつ記念なのである。しかしながら、切手の発行はもとより、この100年記念を祝うささやかな式典すら催されることはなく、ましてや人々の話題にもならないのはなぜであろう。日本とベンガル地方の文化交流記念が軽視される原因の一つとして、日本における欧米の強い影響力が指摘されているが、日本を代表する知識人、文化人、教育者、メディア関係者、政府関係者から社会一般の人々にいたるまで、この文化交流の歴史に対して無関心に徹しているような気がしてならない。こうした日本の現状に対し、一人のベンガル人として心から残念に思うのである。日本とベンガル地方の文化交流の歴史を少しでも思い出していただきたい、または、知っていただきたいという願いを込めて、その代表的存在であるベンガルの詩人タゴールを中心に、100年の歴史を簡潔に振り返ってみたい。
 日本とベンガル地方の文化交流100年の歴史は、岡倉天心が1902年にインドを訪れた時に始まる。この時、岡倉天心はタゴール家に10ヶ月間滞在し、両者の間でアジアの平和、教育、文化など様々なことが議論された。岡倉天心は自身が提唱した「アジアは一つである」という思想に対してタゴールに理解を求め、タゴールもまた岡倉天心の思想に共鳴し、互いに親交を深めた。この10ヶ月間に及ぶインド滞在中、岡倉天心は『東洋の理想』を脱稿し、『東洋の目覚め』の執筆にとりかかったと言われている。帰国後、岡倉天心は弟子の横山大観、下村観山、菱田春草をインドに送り、この地を見学させた。その後、勝田蕉琴はカルカッタの美術学校で教鞭をとり、荒井寛方もタゴールの開設した寄宿学校シャンティニケトン(「平和の家」の意)に滞在してインド美術などを学んだ。イギリスの植民地支配下における当時のベンガル地方では、伝統文化への復帰を求める19世紀ベンガルルネサンス運動が展開され、数多くの芸術家が生まれた。日本の芸術家たちはベンガルルネサンスの芸術家たちとの交流を深め、帰国後、日本美術院におけるベンガル派に多大な影響を及ぼした。
 タゴールが初めて日本を訪れたのは1916年6月のことである。シャンティニケトンの協力者であるアンドルーズ及びピアソン、青年画家ムクル・デーの3名がタゴールに同伴して来日した。1913年にノーベル文学賞を受賞した詩聖タゴール来日のニュースは、当時の主要報道機関を通じて広く日本国内に伝えられ、上野の寛永寺で盛大な歓迎式典が催された。この歓迎式典には時の大隈総理大臣をはじめとして、閣僚、学者、宗教関係者、芸能人など著名人218名が出席し、タゴールの講演を聞いた大隈総理大臣は涙を流したとも言われている。その後、タゴールは台東区池之端の横山大観邸や横浜の原富太郎邸三渓園などに3ヶ月間滞在し、日本の著名人と親交を深め、思索するかたわら執筆を行った。また、東京帝国大学や軽井沢の日本女子大学などで講演も行った。日本滞在中、日本とその伝統文化に接したタゴールは、なかでも柔道、生け花、茶道などに心を打たれ、これらの文化をシャンティニケトンで講義して欲しいとの要望を出し、後に日本から講師が送られた。
 翌1917年、タゴールは画家ノンドラル・ボースを伴って、再び日本の地を訪れた。この2度目の来日で、タゴールは京都、奈良、大阪、神戸を訪れ、数多くの講演を行った。また、1924年、3度目にタゴールが日本を訪れた時には、国家主義者頭山満、平岡浩太郎、学者、軍人などが集い、上野精養軒で歓迎会が開かれた。この3度目の来日時、タゴールは東京帝国大学で講演を行い、西洋の模倣に傾倒する日本の軍国主義を反ナショナリズムの立場から痛烈に批判した。日本とアジアに対する親愛の情からなされたタゴールの批判は、当時の日本の人々にとって受け入れがたいものであった。後に、日中戦争をめぐってタゴールと詩人野口米次郎は激しい論争を展開したが、日本の軍国主義の歴史は、タゴールが予想し、憂慮した通りの結末を迎えたことは言及するまでもない。その後、1929年に2度来日したのを最後に、タゴールは再び日本を訪れることはなかった。
 戦後、インド・パキスタン分離独立によって、ベンガル地方はインドのベンガル州と東パキスタンに分離されたが、1952年、インド及びパキスタンと日本の間でそれぞれ国交が樹立され、戦争によって一時中断されていた日本とベンガル地方の交流は再開された。日本の多くの学者や学生がインドの西ベンガル州や東パキスタンの大学に戻り、また、ベンガル地方の人々も日本の文化や教育・技術を学ぶために来日した。
 太平洋戦争の開戦、そしてその終戦を見届けることなく、世界平和を願って1941年にこの世を去ったタゴールの思想は、戦後の日本で再評価されるようになっていった。こうした流れのなか、1959年に東洋大学学長大倉邦彦、評論家山室静、平凡社創立者下中弥三郎、東京大学教授中村元などによって、タゴール記念会及びタゴール研究所が設立された。ここではタゴール研究やベンガル語の講義が行われた。その後、1961年にはタゴール記念会主催によるタゴール生誕百年祭が開催され、記念としてアポロン社から『ギーターンジャリ』、『タゴール撰集』が出版された。1981年には現麗澤大学我妻和男教授(筑波大学名誉教授/元タゴール国際大学教授)が中心となり、10数年もの歳月をかけてタゴールの全作品を和訳した『タゴール全集』が出版された。
 1988年、初めてのインド祭りが全国で開かれた時には、映画、コンサート、インド料理、工芸品など、様々なインド文化が日本に紹介された。この時、タゴール・ソングの代表的な歌手も来日し、コンサートが行われた。また、日本で初めてのタゴール展も開かれ、タゴールが生前に遺した絵画が展示された。1989年7月、シャンティニケトン内タゴール国際大学の日本人元教授及び元留学生一同とタゴール愛好家によって「タゴール国際大学日本学院設立委員会」が設立され、同構内に日本学院を建築するための基金が募られた。この基金によって、1994年、念願であった日本学院が完成した。現在、ここでは日本に関する講義・研究が行われ、また学生の文化交流の場ともなっている。
 以上、足早に100年の歴史を振り返ってみたが、「日本・インド文化交流」ではなく、「日本・ベンガル地方文化交流」という表現をつかっていることに疑問をもたれる方もおられるであろう。日本ではタゴールといえばインド人という認識である。それは決して間違いではないのだが、バングラデシュ人はタゴールをベンガル人であると認識する。歴史的に異なる国家に分離されたベンガル地方であるが、バングラデシュ人となってもベンガル人であることに変わりはないのである。日本とベンガル地方文化交流の歴史とともに、この表現についても一度考えていただければ幸いである。

 経歴 1959年東パキスタン(現バングラデシュ)シレット県に生まれる。1984年チットゴン大学修士課程歴史学部中退。同年、中曽根内閣の留学生倍増計画により来日。ジャパン・ランゲージ・インスティテュート(日本語学校)に入学。1985年日本人と結婚。以後、印刷会社に勤務し、日本の印刷技術を学ぶ一方、1991年よりベンガル語雑誌『マンチットロ』の編集長として現在に至る。その他、1996年よりベンガル語の法廷通訳士を兼業、2002年日本ベンガル協会理事長就任。