広島で自ら被爆した新聞記者山野上純夫氏の被爆回想記「ヒロシマを生きて」が高知で出版された。平成30年から毎日新聞紙上での連載をまとめたもの。昨日から読み始めた。

驚いたのは冒頭から日本学術会議の話が出てきたことである。「原子力研究の是非」について、1952年10月27日の総会の席上、広島大学理論物理学署長の三村剛昂博士が「原子力の研究は、平和利用といっても軍事利用に通じるものがある。米ソ間の冷戦対立が続く限り、日本は研究すべきでない。これは私の被爆体験から申し上げることです」と述べた。

その日の会議では、茅誠司東大理学部長らが「原子力平和利用の研究に積極的に取り組むための調査審議会設置を政府に進言する共同提案が出されていた。

三村博士が、広島の市民がいかに悲惨な状態で命を奪われたかを語りながら、「平和利用という美名にまどわされてはならない」と、声涙とも下る発言を続け、議長の亀山尚人東大名誉教授は「時間制限はしない。十分に語って」と告げた。

原発開発をもくろむ政府に対して、協力しようとする勢力に対抗して「ノー」を突きつける。そしてその議論を「時間制限」なく受け入れようとする学術会議があったのだ。手記によると「日本の学術会議はもともと、科学者の戦争協力を反省する立場から発足したものである」。政府の考えに是々非々で議論することが当たり前とされた組織である。

三村博士は、戦争中、広島大学の前身である広島文理大学で理論物理学研究所長を務めていた。波動幾何学という数学で素粒子の動きを解明し、量子力学と一般相対性理論の統一を目指す研究に没頭していた。政府は原子爆弾開発への寄与を期待していたはずである。そのとき、博士は学生たちに話した。「私たちの研究は科学の進歩には役立つかもしれないが、戦争のお役には立たないかもしれないと念を押して所長就任を受け入れた」。

三村博士の研究は、後の湯川秀樹、朝永振一郎博士のノーベル賞授賞への呼び水となったとされる。そんな原子物理学の最先端にいた人物が自らの被爆後は、原子力の危険性を訴える研究者に“転向”したのだった。政府の方針に真っ向から反対するそんな科学者がいてこそ「日本学術会議」が存在感を示すのだ。

日本学術会議が推薦した6委員の任命拒否をめぐる政府vs野党のやりとりにはうんざりさせられる。政府方針に対して堂々と反対意見を述べることができないような組織なら、廃止した方がいい。そんな思いがしている。