森小弁(1869年 – 1945年)明治時代中期にミクロネシアのトラック島(現ミクロネシア連邦チューク州)に渡り、現地人妻を娶り、大酋長となり、教育を中心に島々の発展に尽くした。1000人規模の子孫を残し、政財界に大きな影響力を持つファミリー。人気漫画「冒険ダン吉」のモデルとされた時代もあり、七代目大統領のマリー・モリは曾孫にあたる。

 明治維新後、初の国会が開催された1891年、22歳の森小弁は南洋貿易商社「一屋商店」の社員の一人として天祐丸に乗り込んだ。日本刀と短銃一丁を携えていた。

 小弁は現在の高知市で、土佐藩士の父可造と母加奈の間に二男として生まれた。可造は維新後、大阪で裁判所判事の職を得た。土佐藩蔵屋敷があった土佐堀に住み、小弁もそこで幼少期を過ごした。父親の死亡で高知に戻り、海南学校に通った。自由民権運動が最盛期だった。海南学校を中退、大阪裁判所に勤務していた兄を頼って再び大阪に出た。大井憲太郎を首謀者とした大阪事件に巻き込まれるものの、逮捕は免れた。その後、東京へ出て大江卓や後藤象二郎の下足番をしながら、東京専門学校に通った。

 小弁の南洋志向に影響を与えたのが当時読んだ1890年刊行の「浮城物語」だった。日本男児の一団が南洋に進出し、イギリスやオランダを相手にジャワやスマトラなどを攻略するという空想小説である。国会は開設されたものの民主主義とはほど遠いやりとりが繰り返され、中江兆民などは「議会は無血虫の陳列場」と言って議員を辞職するほどであった。一方で列強との間に結んだ不平等条約の改正交渉はまったく進まず、日本は内患外憂。多感な小弁は日本を捨てて南洋に活路を見出した。

 小笠原諸島を経由してトラック諸島のウエノ島に上陸して住み着いた。トラック諸島では島の酋長同士が争っていた。小弁はウエノ島のマヌッピス酋長のもとで先頭に立って戦い、酋長の信頼を得て、その長女イサベルと結婚する。当時、トラックを含む東カロリン諸島はスペイン領だった。小弁は石鹸の原料となるコプラを日本に輸出し、衣料やランプなど日用品を輸入し、トラックに初めて貨幣経済を持ち込んだ外国人となった。

 生活の糧を得た小弁の仕事は順風に見えたが、1898年、島々はドイツに売却され、ドイツは日本人排斥に動いた。小弁はトラックに居残ることを許されたが、他の日本人は追放の憂き目になった。当然、貿易会社は閉鎖となり、日本との行き来もなくなった。

 小弁の生活に再び光が差したのは第一次大戦の勃発だった。日本海軍はドイツ領だった東カロリン諸島に進駐し、トラック諸島は国際連盟の日本の委任統治領となった。日本は西カロリン諸島のパラオに南洋庁を置き、日本の支配が始まった。トラックに長年居住していた小弁は日本とのパイプ役として注目され、日本との貿易も再開し、大きく発展した。

 商業で得た利益でまず学校を作り、政府に寄付した。当時の「大南洋興信録」によると、小弁は「島民家屋の改造、道路、橋梁、波止場の改修及び新設。並びにコプラ製造法の改良等、島の改善、産業に尽力した」と書かれてある。そのころ、小弁はウエノ島大酋長になっていた。

2008年、高知市を訪れたモリ大統領は「かつて南洋に新天地を求めた日本人の開拓者の血が、わたしを含め多くの奥民に流れている。われわれの誇りとして受け継がれている」いと述べた。チューク州には森性を名乗る人は3000人といわれ、同州の人口の約10%を占める。(萬晩報主宰・伴武澄)