7月17日(金)午後7時から

場所:WaterBase

アンパンを作ったのは銀座木村屋。ではクリームパンは? 答えは新宿中村屋だ。シュークリームからヒントを得たという。明治時代、日本でパンの普及は菓子パンから始まったというのが定説だ。中村屋は当初、本郷の東大近くにあり、学者や学生たちに評判を得ていたが、後に新宿に移転する。きっかけは、パンの行商で近郊を売り歩いているうちに購入者が多かったためとされている。

中村屋は信州安曇野出身の相馬愛蔵と仙台藩士の娘で明治女学校を出た良の二人が創業した。二人は結婚後、安曇野で養蚕業をしていた。二人ともキリスト教徒で、愛蔵は井口喜源治らと明治31年に私塾「研成義塾」を開講するなど進取の気性があり、良もまた明治女学校で文学を通じて多彩な人脈を持っていた。

中村屋が新宿に移転すると、愛蔵と良を慕って多くの文化人が近隣に住み着いた。まず安曇野出身の彫刻家、荻原守衛がアトリエを開いた。戸張孤雁、柳敬助のほか、中村彝、中原悌二郎らが中村屋に出入りし、とみに芸術的雰囲気が広がり、芸術家のサロンと化した。外国人の出入りも少なくなかった。盲目のロシア詩人、エロチェンコ、そしてロシアのニンツァ。インド人革命家で日本に亡命していたボースは、英国の訴追を逃れて、中村屋に姿を隠した時期もあった。

中村屋のレストランの定番メニューとなっている、インドカレーや月餅、ボルシチはそんな外国人との交流から誕生した。たまたま生業としたパン屋が芸術家のアトリエとなり、国際交流の場となる背景には「「人はいかなるものになろうとも、何をしようとも、その前に良き品性の人になれ」という研成義塾の教えがあった。相馬夫妻のことを知ったのは学生時代に呼んだ『安曇野』がきっかけだった。インド人革命家の亡命生活を支えていたのが新宿のパン屋だったという話が忘れられなかった。