後藤新平(1857-1929年)日清戦争で割譲を受けた台湾総督府民政長官として台湾開発を積極的に推進した。明治から大正期、防疫から通信、鉄道、都市計画、外交までアジアをグランド・デザインした人物といっていいかもしれない。

 幕末、安政年間に仙台藩水沢城下に生まれた。明治になって胆沢県大参事であった安場保和に見出され、16歳で福島洋学校に入り、須賀川医学校に進み、医学の道を目指した。卒業後、愛知県令を務めていた安場保和に請われて愛知県医学校に医者として就職した。板垣退助が岐阜県で暴漢に襲われた時、診察をした。

愛知県での実績が軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、官僚として頭角をあらわすようになった。衛生局長時代に相馬事件に連座して野に下ったが、日清戦争後に復員する将兵の疫病対策を取り仕切り、児玉源太郎に認められた。

当時、広島に大本営が置かれ、戦地で蔓延していたコレラなど疫病対策が重要課題だった。後藤は広島沖の似島などに3カ所の検疫所をたった2カ月で建設し、23万人の及ぶ帰還兵たちを一時隔離して伝染病の国内持ち込みを封印した。北里柴三郎らから伝染病の恐ろしさを知らされていた後藤は3カ月で世界でも例のなかった大規模な水際作戦を敢行し、国際的にも大きな評価を得た。

1898年、児玉が第四代台湾総督に就任すると民政局長に抜擢された。後藤の台湾経営の哲学は「生物学的植民地論」として知られる。生物の生育と同様にそれぞれ固有の生態的条件があり、日本の慣行、組織、制度をそのまま台湾に移すのではなく、台湾の慣行制度に見合うように工夫しなければならないというものだった。「ヒラメの目をタイの目にはできない」が口癖だった。

8年間にわたる植民地経営で、当時、台湾の人々の間に広まっていたアヘン吸引の禁止や、鉄道・港湾など都市インフラの整備、製糖産業の育成など、矢継ぎ早に近代化政策を実行した。精糖事業ではアメリカから帰国したばかりの新渡戸稲造を精糖技師として招聘するなど人材の発掘でも手腕を発揮した。また台湾の水道事業は後藤の提案によって着手され、東京より早く進んだといわれる。またクスノキから生成する樟脳事業は鈴木商店の金子直吉を提携し専売制を敷き台湾産業の糧を見出した。

その後1906年、日露戦争の勝利で経営権を取得した南満州鉄道初代総裁に選ばれ、経営の基礎をつくった。1908年には逓信大臣・初代鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣などを歴任し、関東大震災後に帝都復興院総裁として東京復興計画を立案した。

面白い話では、民政局長時代に孫文が台湾を訪れ、後藤に革命への資金協力を申し入れたところ、「無理だ」と断った上で「どうしてもというなら対岸の厦門に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」と語ったという逸話も残っている。(寶田時雄「請孫文再来」)

没後90年の2019年4月、台北の寺院で後藤新平のデスマスクが発見されたというニュースが流れた。かつて李登輝元総裁は「台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にある」と述べた。後藤新平の生涯は台湾でよみがえり、今新型コロナの世界的感染に関連して再評価が進んでいる。(萬晩報主宰 伴武澄)