スバス・チヤンドラ・ボース氏の最後 塚本繁

 スバス・チヤンドラ・ボース氏の最後 元陸軍大尉光機関 塚本繁
 飛行機事故
1・事故発生日時 1945年(昭和20年)8月17日午後4時頃
2・事故登生場所 台湾・台北松山飛行場
3・事故飛行機の種類 第3航空軍の97式2型(Sally)重爆撃機
4・事故機の乗員
  主席操縦士 滝沢少佐
  副操縦士 青柳准尉、沖田与志雄曹長
  無線技師 富永技官
  乗員   四手井綱正中将、野々垣四郎中佐、坂井忠雄中佐、河野太郎少佐、高橋岩男少佐、新井啓吉大尉、スバス・チャンドラ・ボースINA最高司令官、ハビブル・ラーマン大佐

        搭乗位置略図  ●:死没者 ○:負傷生存

   〇沖田曹長     ●富永無線技師
   ●青柳准尉     ●滝沢少佐 
   〇新井大尉     ●四手井中将
   〇河野少佐     〇野々垣中佐(上部機関銃座に搭乗)
   ●ネタジ      〇坂井中佐
   〇ラーマン大佐   〇高橋少佐
5,事故の概況
 台北、松山飛行場における搭乗機の休憩時間は約二時間で、この間に給油とエンジンの整備を行った。エンジンの点検は主として主席操縦士の滝沢少佐を中心に、河野少佐と地上整備司令中村大尉により行われた。河野少佐の左側エンジンがおかしいという申し出に対して、滝沢少佐は二回にわたりエンジンのテストを実施し、その結果異常なしと確認した。
 全員機中の人となり(参考略図参照)、爆撃機は大連に向けて出発することになった。飛行機はいよいよ出発態勢となり、滑走を始めた。滑定路の長さは八九○メートルであった。重爆撃機の離陸の場合は普通滑走路の大体中間くらいまで滑走したところで機尾が地面を離れるのであるが、この時は滑走路の約四分の三走ったところ(六六六メートル)でやっと機尾が地面より難れたと中村大尉(地上整備司令)は語っている。
 飛行機が急上昇に移ったとたん、すさまじい爆発が起こり、機は右に傾き、プロペラとエンジンが吹き飛んだ。そして飛行場の端から約一〇~二〇メートルの地面に突っ込んで炎上した。すなわち、機は大きく右側に傾いて機首から地面に激突し、前部から発火したのである。
 乗員のうち、上部機関銃座にいた野々坦中佐が最も運がよく、ほとんど無傷で地上に投げ出され、坂井中佐、高橋少佐、新井大尉は墜落と同時に気を失ったが、まもなく気がつき燃えさかる機内から脱出した。
 河野少佐はほぼ中央に乗っていたが、沈着な少佐は、周りがどうなっているかを観察した。飛行機が墜落した時、その衝撃で燃料タンクが河野少佐とボースの間に落ちた。河野少佐はうしろを振り向いてみたが、このタンクがじゃまになって、ボース氏の姿を見ることはできなかった。しかし、前の座席の状態は確認できた。
 四手井中将は後頭部に裂傷を受けて即死、滝沢主席操縦士は握っていた操縦棹が顔に食いこんで即死、青柳副操縦士と富永無線技師は胸を強打して出血していた。(両名とも病院収容後死亡)
 この間にも炎はますますひろがり、熱気に耐えられなくなった河野少佐は、機の頭部にあるプラスチックの覆いを破って、そこから飛び出した。両手と両足、額に火傷を負っていた。墜落して燃え出した機体は、前半分が折れていた。出入口の扉は荷物や破損した機体の部品で閉ざされていたので、そこから脱出することはできなかった。ボース氏は炎に包まれた前部の折れ口に向って炎の中を走りぬけた。ラーマン大佐もボース氏のあとから走った。
 重傷を負ったボース氏は、他の負傷者と共に、台北市の陸軍病院南門分院に運ばれた。院長は吉見胤義軍医大尉で、ほかに医師二、日本人および台湾人の看護婦、三十名の衛生兵が勤務していた。運び込まれた時、ボース氏の容態は非常に悪かった。
 吉見軍医によれば、
「彼の全身がひどい火傷を受け、灰のようなねずみ色になっているのを見た。彼の胸は焼けていたし、その顔ははれあがっていた。彼の火傷は最もひどいものだった。火傷の度合は第三度の重火傷であった。目もはれあがれ、視力はあったが、目を開けているのは容易ではなかった。腹部には出血はなかった。運び込まれた時は、気は確かであった。ひどい熱を出していた。体温は三九度もあったし、脈拍は一分間に一二○、心臓の状態も悪かった」
 ボース氏の診察をした吉見軍医は、明朝まで持たないだろうと診断した。しかしできるかぎりの治療を実施した。午後七時~七時半頃にボース氏の容態は悪化し、脈拍が衰弱してきた。吉見軍医はボース氏にヴィタカンフォールとデイジタミンの注射をし、さらに刺激剤を与えたが、心臓と脈拍は回復しなかった。吉見軍医は死亡証明書を書き、死因を第三度火傷と記入した。
 ボース氏の死亡に立ち会った者は、吉見軍医、鶴田医師、ラーマン大佐、中村通訳、看護婦二名、憲兵および衛生兵それぞれ一名の計八名であった。
6.爾後の處置
 ボース氏の死は直ちに台湾軍司令部に伝えられ、軍司令部からは永友少佐が派遣された。翌八月十九日、台湾軍司令部はボース氏の遺体は飛行機で東京へ送るようにとの、大本営からの電報を受けとった。しかし続く電報で、遺体は東京へ運ばないで台北で火葬するように命令が変更された。
 八月二十日、ボース氏の遺体は台北で火葬されることとなった。火葬は台北市営の火葬場で行なわれ、ラーマン大佐、、水友少佐、中村通訳らが立ち合った。
 九月五日、台北南飛行場に坂井中佐、ラーマン大佐、中宮少佐と林田少尉の四名が集合、ボース氏の遣骨を東京に護送するための飛行機に乗り込み、福岡の雁の巣飛行場に向った。その夜は遺骨と遺品を西部軍司令部に保管してもらい、東公園の偕行社に一行は宿泊した。翌日、一行は二班に別れラーマン大佐と中宮少佐は飛行機で、坂井中佐と林田少尉は列車で東京に向った。
 午後三時、博多発の列車で坂井中佐と林田少尉と護衛の渡辺伍長と兵二名の四名が乗車した。九月七日午後六時頃、東京駅到着、午後十一時頃、坂井中佐と林田少尉は大本営に遺品と遺骨を運び週番司令木下少佐に二つの箱を渡し、その管理を委任した。木下少佐は、明朝当直参謀にその旨を伝えて、大本営が責任をもって一切を取り計らうと確約した。
 翌朝、二つの箱の管理は当直参謀の高倉中佐に引きつがれた。この日の朝、坂井中佐は再び大本営に出頭して高倉中佐に会い、高倉中佐がボース氏の遺骨と遺品を受け取ったことを確認した。しかし大本営はこの受領について、受領書も授受記録も作っていなかった。
 大本営参謀部はこの遺骨と遺品をインド独立連盟の手に渡すのが最も適当と考えた。そこで高倉中佐は直ちに東京にあるインド独立連盟の責任者であるラマ・ムルチ氏に電話で連絡して、大本営に出頭して遺骨と遺品を受け取るよう依頼すると共に、ムルチ氏邸に自動車を差し向けた。
 三十分ほどしてムルチ氏は丁度東京に来ていた同志のアイヤー氏といっしょにやってきた。
 こうして九月八日朝、大本営の正面入口で、ボース氏の遺骨は高倉中佐の手から、ムルチ氏、アイヤー氏、両氏に引き渡された。
 ムルチ氏邸に運ばれた遺骨は、安置台の上におかれ、花と線香が手向けられた。当時日本の士官学校へ留学しておったインドの青年達が遺骨のお通夜をした。
 インド独立連盟としては、ボース氏にふさわしい盛大な葬儀を行ないたかった。しかし米軍の日本占領の処置は着々と進んでいた。人目を引く葬儀は敵対行為と見なされる恐れがあるので、葬儀はごく内輪に杉並区の蓮光寺で行なうことにした。
 参列者は、ムルチ氏を始めインド独立連盟に関係のある人々とその家族、インド放送の関係者、インドの青年達(士官学校留学生)などで、大本営を代表して高倉中佐も参列した。
 日本の習慣では、普通、遣骨は持ち帰るのだが、インド独立連盟と日本軍当局は、しばらく遺骨を寺で保管してほしいと頼んだ。そこで蓮光寺の望月師は、遺骨が正式の機関に引き取られるまで、ボース氏という偉人にふさわしい礼を尽くして遺骨を保管することを承諸した。
 こういういきさつで、その後も毎年八月十八日のボースの命日に光機関の関係者、日本軍の関係者等ゆかりの者達が集まり、蓮光寺の望月氏の導師で、ボース氏の霊を弔い続けている。
 本年は三十三回忌(一九七八)の法要を盛大に挙行したのである。


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