Yorozubampo
 
山田良政君伝(1925.12.28)         平山周

 中国革命に生命を棄てた無償の行為の一典型を、同志が追憶した文である。日中関係のきずなの深さをうかがうに足る。萱野長知著『支那革命秘笈』1941年刊)に収める。

 山田長政君は青森県弘前の人なり。父名は浩蔵、世々津軽の藩士たり。君明治元年一月一日をもって生る。長じて水産講習所に学び畢業の後、北海道昆布会社に入り、上海支店員となる。明治二十七年日清の役起るや、陸軍通訳となり、軍に遼東の野に従い、転じて台湾にゆく。凱旋の後、北京公使館付武官海軍大佐清川具和にしたがいて北京に行く。

 明治三十年九月、孫中山の英京より横浜にいたるや、予、宮崎寅蔵とこれを東京に迎えてともに居る。翌年、予北京に游び、始めて君と相識り、ともに亜東の形勢を論じ、堅く将来の大事を約せり。たまたま戊戊の変起り、康有為まず天津に奔り、英船に救われて香港に逃る。その党譚嗣同、王照ら市井の侠王・武爺に頼りて、二十四日の夜、ひそかに宮中に入り、光緒帝を救出しもって海外に奔らんことを謀り、予らに請うに一臂の力を仮さんことをもってす。予らこれを諾し、あらかじめ地理を究め馬車を備え、もって時のいたるを待つ。

 なんぞ料(はか)らん、その日、譚嗣同、瀏陽館に捕えられ王照ひとり逃れいたる。窮鳥懐に入る、これをいかんともすることなし。予、君と王照を挟んで天津に奔り、小舟をやとうて白河を下り、逃れて日本警備艦大島艦に入る。この歳、ドイツ膠州湾に占拠す。君その地に入りて、実情を探究し、ついで旅順に入り、露国経営の情形を偵査す。露人ややこれを覚る。

 君さらに畏るるところなく、ふたたび旅順に入り、露人に捕えられしが、突嗟の間奇計を出し、わずかに虎口を脱して逃れ掃る。明治三十三年、孫中山、恵州革命軍を起さんことを謀り、一面長江の同志をして相応ぜしめんと擬し、中山と予と相携えて上海にいたるや、君南京同文書院の教授兼幹事となり、まさに任に赴かんとし、途上海を過ぎ、これに客舎に邂逅(かいこう)す。

 たまたま唐才常武漢の挙敗れ、容コウ(門の中に雄の左側)、容星橋ら逃れいたる。長江一帯警戒はなはだ厳にして、長く留るべからず。中山去りて台湾にゆく。この時、日本同志宮崎ら東京にありて中止を唱う。予君と向後の計を議す。君いわく、男児事を謀る中道にして廃すべからず。まさに最後の一セキ(歯の右に句)演じてやむべしと。慨然職を抛(なげうち)で福建ショウ(サンズイに章)州に向う。

 予一たび香港に回り、ともに台湾に会せんことを約す。九月、予まず台湾にいたる。君ついでいたり、中山おくれていたる。たまたま嘉応州の人陳南きたりていわく、海豊、陸豊の同志まさに事を挙げんとすと。中山すなわち君をして陳南とともに行かしめ、託するに挙兵の全権をもってす。十月八日、君ら台湾を発し、香港を経て海豊にいたる。事情不可なるものあり。よりてその軽挙を戒め、転じて恵州革命軍に投ず。

 時に革命軍は三州田の山塞(さんさい)に拠(よ)り、清軍一隊は沙湾にあり。一隊はまさに横岡を扼(やく)せんとす。革命軍偵してこれを知り、機先を制してもって敵鋒を挫(くじ)かんと欲し、夜に乗じ沙湾を襲うてこれを敗る。ここにおいて、四方来り応ずる者日に多く、進んで仏子劫より横岡にいたる。

 たまたま鄭司令香港よりいたり、中山の電命を伝えていわく、一軍ただちに廈門(アモイ)にいたれ、おのずから接済の途あらんと。よりて折回して道を東北に取り、三多祝梅林を経て白沙にいたる。またたちまち中山の電命あり、いわく、台湾の事情一変、外援期し難し、軍中のこと司令みずからその進止を決せよと。

衆ために意気阻喪す。鄭司令いわく、ふたたび三州田の山塞に返り、新安虎門の同志を合せて、一気に広東省城を陥(おとし)いれんと。諸領袖これに同じ、すなわち銃を持する者千余人を選び、残余の同志を解散せしむ。十月二十二日、海陸二途に分れ、まさに大鵬に返らんとす。敵軍その情を知り、これを三多祝に要撃す。全軍ために土崩瓦解し、しかして君ついに乱軍の中に戦死す。時に年三十三。

 初め君藤田氏の女敏子を納(い)るるの約あり。君歿するの後、人これに嫁を勧むるも、節を守りて応ぜず。君の家弟純三郎その志を継ぎ、日支両国の聯携に尽瘁(じんすい)して、今なお上海にあり日語学校を経営す。大正七年、中山朱君執信を派して君の遺骨を求めしも、寒烟(かんえん)荒草また尋ぬべからず。わずかに一塊の黄士を取りて帰る。純三郎広東に赴き、その分土を得て、帰りて先人の墓側に葬る。両九年碑を菩提寺に建て、その建碑式を行なうや、中山特に陳君中孚を派してその式に列せしむ。碑文に日く
山田良政君ハ弘前ノ人ナリ。庚子閏八月、革命軍恵州ニ起ツヤ君挺身シ義ニ赴キ、遂ニ戦死ス。アア人道ノ儀牲、亜洲ノ先覚、身ハ殞滅(いんめつ)スルトイエドモソノ志ハ不朽ナリ。    民国八年九月二十九日孫文撰抃書
 君の功烈昭々、あえて一語を贅(ぜい)せず。
                       昭和十三年一月二十三日友人平山周稿


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