一般的にいって第一次大戦以降における人種意識の問題は、外交・政治・経済的要因をぬきにしていうならば、まさに文明の原理としての人種という姿をとりはじめた、ということができよう。
幕末以来のながい西洋文明へのコンプレックスを脱却し、アジア人であること、日本人であることを、むしろひとつの誇らしい原理としてとらえなおそうとする次元へと、問題が移されたわけだ。
その場合、日本の知識人がある好ましい典型として思いおこしたものの一人が、岡倉天心であったことは、偶然ではない。この物語の中では、天心のことを取りあげたことが一度もなかったので、ここでこの人物の場合を考えておきたいと思う。
天心といえば、その最初の本『東洋の理想』(明治三十六年、ロンドンで刊行)の冒頭にかかげられた「アジアは一つ」という言葉があまりにも有名である。いわばそれは日本の青年たちばかりでなく、インドや中国の青年たちをも鼓舞する、霊感に満ちたスローガンというべきものであった。それは福沢諭吉の「脱亜入欧」とふしぎな逆説で結ばれたかのように、時代の転換期のそのつどに想起された言葉であった。もちろん、この言葉はアジアの芸術と哲学の同一性の直観を表現したものであり、かならずしも政治の言葉として語られたものではなく、いわんや白色人種に対する黄色人種の一体性を主張したものでもない。とくに天心の場合、多くのいわゆるアジア主義者とは異なり、本来の意味でのオリエントの広大な地域が、その視野に含まれていたことから見ても、また彼が明治時代にも稀有のコスモポリタンであったという事実から見ても、天心を何らかの意味で人種主義者と見ることは当らないはずである。しかし、たとえば次のような文章は、ほとんどこれを普通の意味での人種主義の表現と見てもおかしくない。
「アジアの兄弟姉妹よ!
われわれの父祖の地は、大いなる苦難のもとにある。今や、東洋は衰退の同義語になり、その民は奴隷を意味している。たたえられているわれわれの温順さは、礼儀をよそおった異国人の卑怯なあざげりにほかならない。われわれは、商業の名のもとに好戦の徒を歓迎し、文明の名のもとに帝国主義者を抱擁し、キリスト教の名のもとに残酷のまえにひれふしてきた。国際法の光は、白い羊皮紙の上に輝いているが、完全な不正は有色の皮膚に黒い影をおとしている。
王たちの座は、まだくつがえされていないにしても、ゆらぎつつあり、われわれにやすらぎをあたえていたあの乎和は、もはや地上にはない。やせおとろえた飢餓が炉ばたにすわり、天は昔のような恩恵の雨を降らさない。男たちは、無言の恥辱のうちにあってたがいに見かわすだけで、その恥辱をみとめる勇気もない。女たちは、今では、英雄をうむために結婚するのではない。」
「アジアの兄弟姉妹よ!
われわれは、さまざまな理想のあいだを長いあいださまよってきた。さあ、ふたたび現実に目覚めようではないか。われわれは、無感覚という河をただよい流れてきた。さあ、もう一度現実という苛酷な岸に上陸しようではないか。われわれは、結晶のような生活を誇りとして、たがいに孤立してきた。さあ、共通の苦難という大洋のなかで溶け合おうではないか。『黄禍』の幽霊は、往々にして、西洋の罪悪感がつくりあげたものであった。東洋の静かな凝視を『白禍』にむけようではないか。私は、諸君に暴力をよびかけているのではない。私は諸君の勇気に訴えているのであり、侵略をよびかけているのではなく、その自覚をもとめているのである。
ヨーロッバの栄光は、アジアの屈辱である!歴史の過程は、西洋とわれわれのさけがたい敵対関係をもたらした歩みの記録である。
狩猟と戦争、海賊と略奪の子である地中海およびパルト海諸民族の、落ちつきのない海洋的本能は、最初から、農業的アジアの大陸的安定とはいちじるしい対照をなしていた。自由という、全人類にとって神聖なその言葉は、彼らにとっては個人的享楽の投影であって、たがいに関連しあった生活の調和ではなかった。彼らの社会の力は、つねに、共通の餌食を撃つためにむすびつくカにあった。彼らの偉大さとは、弱者を彼らの快楽に奉仕させることであった。彼らの誇りは、ぜいたく品をつんだ彼らの車を曳く無力な者たちにたいする軽蔑からなりたっていた。自由を謳歌したギリシア人でさえも、奴隷にたいしては暴君であったし、ローマの逸楽は、エチオピアの汗とゴール(ケルト族の居住地。おもに現在のフランス、ペルギー)の血のなかを泳いでいた。西洋は平等を自慢するが、彼らの特権階級は今なお大衆の背にまたがり、富者は貧者をふみにじることをやめず、永遠のユダヤ人は以前にまさる追害をうけている。」
「破滅の運命は進み、貪欲の党徒はいそぐ。極東は今や、生体解剖のまないたの上にのせられた。われわれは、中国において、一八四○年の阿片戦争に『白禍』を感じとった。このもっともいまわしい戦争で、大砲の脅追のもとに毒物がわれわれに強制され、香港がうばいとられてイギリスの作戦根拠地となった。一八五七年のアロー号事件では、ふたたび何の口実もなしに英仏連合草が北京に侵入して、夏宮の略奪をおこない、その財宝は、今日にいたるまで彼らの芸術品収集の誇りとなっている。二年後には、三色旗はついにサイゴンにひるがえって、アンナンおよびトンキンをその保護領とし、シャム(タイ国の旧称)を脅追してメコン河の南に後退させた。保護領!−−いったいだれから保護するというのか!つぎの年には、合衆国を先頭とする全世界の武装使節は、日本に開港を命ずるためにその扉をたたいたのである。
だがなぜ、このようなわれわれの没落の物語がつづくのか?朝鮮とカスピ海、太平洋諸島とペルシア湾のおそろしい喜劇と苦痛な道化芝居を語らねばならないのか?西洋の友好的介入が実際にはロシアに満州を保障した、日清戦争後の三国連合のことを諸君は聞かなかったか?われわれのもっとも神聖な聖所をののしった二人の宣教師が怒った暴徒に殺されたことを理由に、ドイツが中国中部の要衝をおさえた膠州湾併合を、諸君は見なかったか?全ヨーロッパが強姦と強奪のために結集して、彼らが海賊の血をひくものであることをふたたび証明した最近の連合占領の悲劇を、諸君は目撃しなかったか?ピルマは、ついきのうまでは存在していたのに、今はどこへいってしまったのか?ティボー(ピルマの鉱山、ルピーの産地)の紅玉には、マンダレー(ビルマの古都)の罪なき血の叫びがこもっている。コイヌールの金剛石(イギリス王室所蔵のインド産ダイヤモソド、一○九カラット)は、ゴルコンダ(インドの昔の城市)の涙のしずくである。彼らの邸宅や博物館で略奪した富、寺院からうばった宝物、泣き叫ぶ女性からとりあげた宝石を誇らぬものがあろうか?
イギリスの金本位制はベンガル(ガンジス河上流域の地方)とカルナチック(南インド東海岸の地方)の略奪に基礎をおいており、彼らじしんの計算によれば、プラッシーの戦いとワーテルローの戦いのあいだに十億ポンドが彼らの金庫に流れこんだ。まことに、西洋の栄光は東洋の屈辱である!
私は、われとわが身に慚じざるをえない。」
「私は今、彼らの言語を借りて諸君に訴えているが、この彼らの言語そのものが、東洋の一体化を示している。それは、共通の復活の叫びをつたえながら、千島列島からコモリン岬まで、カンボジアの出入りの多い海岸からさざ波立つ緑のクレタ島まで達している。そしてじっさい、全アジアの武装をよびかけるのに、西洋の傲慢のおそろしいイメージ以上にいったい何が必要であろうか?
アジア人ひとりひとりの心臓は、彼らの圧追によるいいようのない苦しみに血を流していないであろうか?ひとりひとりの皮膚は、彼らの侮蔑的な眼の鞭の下でうずいていないであろうか?
ヨーロッパの脅迫そのものが、アジアを鞭うって、自覚的統一へみちびいている。アジアはつねに、その巨体をうごかすのに緩慢であった。しかし眠れる巨像は、あすにも目覚めて、おそるべき巨歩をふみだすかもしれない。そして、八億三千万の人間が正当な怒りを発して進むならば、そのひと足ごとに地球は震動し、アルプスはその根底まで揺れ、ラインとテームズは恐怖にさかまくであろう。」(日本の名著39『岡倉天心』昭和四十五年)
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