晩秋に訪ねた信州・南相木村1999年12月08日(水)萬晩報主宰 伴 武澄
| |
|
高松の明石安哲さんと、晩秋に信州奥深くある南相木村(みなみあいきむら)に色平哲郎医師を訪ねた。明石さんは高松の四国新聞の論説委員である。平地では紅葉の盛りだったが、山の木々は冬枯れである。 色平さんには萬晩報に何回か北朝鮮の難民問題を書いてもらっている。メールで知り合い気心は分かっているような気分になっていたが、実は会うのは初めてだ。この村の初代診療所長として赴任し、家族5人で暮らしている。 ●信州の山間で語る日本 南相木村は東京から行くと清里、野辺山を越えて日本列島の分水嶺を越える。北側は佐久盆地で、千曲川の上流に当たる。日航機が墜落した御巣鷹山の長野県側といえば分かりやすい。最近ではオウム神理教の移転騒動があった川上村の隣でもある。 人口1300人で小学生が70人しかいない。日曜日だったせいかもしれないが、村で歩いている人に会うことはなかった。 色平医師の診療所は役場の裏にあった。失礼ながら村の風景には似つかわしくない堅牢な近代建築だった。その東隣りが色平医師のマイホームで奥さんは畑で野菜つくりもしている。 この村はそのむかし平家の落人たちが入り、南北朝の時代に菊池氏がやってきて切り開いた。いまでこそ山間の寒村だが、自由民権運動の流れを受けて明治17年に起きた「秩父事件」では、多くの運動家が秩父連山を越えてこの村に逃げてきた。 むかしからこの地を武州街道が貫き、関東へのアクセスとなていた。戦前までは養蚕が盛んで、生産された生糸は人の背にかかえられてこの武州街道経由で東京に運ばれていったそうだ。 色平医師の多くの患者は村のお年寄りである。「老人たちの死を見守る」のが仕事である。高齢化を迎える近い将来の日本をみるようだった。老人たちに語りかけ、語り継がれる村の歴史を聞く。よもやまのなかに出てくる歴史の断片を組み紐のようにつなぎ合わせ、次の世代に伝えるのも色平さんの役割である。 「交通弱者」である高齢者世帯や独居老人の家には車がない。そこで休日や夜間も、こちらから出向いての対応が求められる。このムラは一昨年春、私が初代の診療所長として赴任するまで、長く無医村だったところだ。「辛い仕事でしょう」と奥さんに問いかけると「毎日がけんかです」と笑っていた。そんな山村でも色平さんのこども3人が明るく健康に育っているのが印象的だった。 ●自分を捨てて村のすべてを受け入れてごらん となりの北相木村には峰尾さんといってチェリッシュのベースを引いていた人が家具職人として入植していた。村の分校を借り上げ、仲間とともに注文で家具を製作している。佐久にはもう木材はなく遠く北海道にまで資材を求めに行くそうだ。 いまでは村に溶け込んで顔役なのだが、住み始めたときは「なんだあいつは」ということでプロパンガスも売ってくれなかった。 いまでは年に4組、5組と東京から「Iターン」(アイターン)がやってくる。外からやってくる人々は自分たち同士でかたまる傾向が強い。峰尾さんはそういう人たちに「自分を捨てて一度村のすべてを受け入れてごらんなさい」と勧めるそうだ。 「そうして自分で出来ることと出来ないことを判断すればいい。最初から村の生活を拒否したのでは何のために村に来たのか分からないでしょ」。なかなかの哲人だ。 別れ間際に峰尾さんの長女が村営バスを下りて帰ってきた。この村には中学校がないので隣6、7キロ離れたの小海町まで通っているのだ。これから長い冬が始まる。色平さんや峰尾さんを慕って若者が都会から多くやってくる。若者との議論につき合うのも二人の仕事だ。 翌々日峰尾さんからメールが届いた。 「ここ2、3年、テレビ、雑誌などで「田舎暮らし」を余りにも軽く扱っている物があります。都会人の無い物ネダリを「田舎」へと向けさせ、それがあたかも新しい人生の幕開けようにし向ける、そこには「田舎に暮らす」と言うことの本当の姿が見えていません」物見遊山で行ったわけではないのだが、考えさせられた信州の1日だった。 |
© 1998-99 HAB Research & Brothers and/or its suppliers. All rights reserved. |