足元を掘り続けると大海原に至る -- 地域医療の現場から
信州佐久での民際学的とりくみ
1999年09月10日(金)
| |
|
長野県東南部、人口1300人の南相木(みなみあいき)村。鉄道も国道もない山の村に初代の診療所長として家族5人でくらしている。 自家用車が普及するまで、人は最寄りの鉄道駅小海(こうみ)まで3里の山道を歩いたという。養蚕や炭焼きなどの山仕事しか現金収入のなかった時代だ。今は村営バスが走り、農作業も機械化されたが、患者さんのほとんどは、そんな村の歴史を知るお年寄りたちだ。 診療の合間にその口から語られるのは遠い記憶である。今はない分校に子どもたちの歓声が絶えなかったこと。足ることを知り、隣近所が支えあったくらしぶり。山に生かされた日々であった。 しかし天保7年の飢饉では村の餓死者120余人。明治30年7月の赤痢、寺への収容者250名中、死者40余名。今も村に残る篤い人情に感激する一方で、ひもじさと感染症流行の生々しい記憶があった。 分け隔てのなさ、生活の楽しみ、笑い、目の輝きの一方に、みてくれ、ぬけがけ、あきらめといったムラ社会の狭さがある。このような二面性は、かつて放浪し、へき地医療にとりくむきっかけになった東南アジアの村々を彷彿とさせた。 「地域というものは、外からの援助では決してよくならない。そこに実際に住んで日々のくらしを送っている者が自らつくっていかなければ、決してよくならないんじゃ」宮本常一氏のことばである。 「風のひと」としてこの村に移り住んだ外来者である私たち家族は、隣人である「土のひと」たちに日々大変お世話になっている。700年の歴史をもつ自然村相木郷(あいきごう)の包容力に感動しつつ、進行する高齢化と過疎化の波にムラの自治の将来を案ずる医師としての日常がある。 毎年、百数十人の日本の学生、社会人をムラに受け入れて、消えゆくムラの確かな何かをお伝えすべく地域の友人たちととりくんでいる。 巨大開発としての長野オリンピック狂騒曲によって90年代初頭の信州は地域と環境に大きな負荷を受けた。例えば長野新幹線と高速道路網の整備に総額1兆7000億円の投資がなされ、鉄道や道路の建設現場には外国人男性の、飯場わきのスナックには外国人女性の姿が目立っていた。 現場の課題にとりくむべくNGOとしての「佐久地域国際連帯市民の会」ISSAC(アイザック)は誕生した。ムラおこしにとりくみつつ、外国籍住民の「医職住」の生活相談にあたり、日本の若者が日本のムラとアジア各国のムラを往復することで現場体験いただくことをサポートしている。 日々のとりくみに於て次第に保健医療の枠を出て、市民的公共性について考えざるをえなくなり、平和学の課題である国際金融の構造的暴力の諸作用を身近に自覚させられることになった。 皆さんこんにちは。私たちは外国人の「医職住」に関する権利を守ることを目的として集まった民間のボランティアです。私たちは様々な市民、弁護士、医師が集まっています。迫害や飢えを逃れていくつかの国境を越えた難民たちが日本列島に至り、バブル景気が例外的に続いていたここ信州で彼らに出会いそして別れることになった。アフリカ人の体格のいい男性がHIVに感染して体重が半分になり、鼻血を出しながら結核の治療に入院した。或るタイ女性は亡くなる時、つくづくと「タイのお坊さまにお会いできないことが残念です」と言い遺していった。 このことをきっかけに友人のパイサン師というタイ人仏僧に来日いただき、佐久地域のタイ人コミューニティを行脚いただいて、善光寺まで一週間歩いての頭陀(すだ)修行にとりくんでいただいた。現在のアイザックは、足元の地域、世間で人間として人間の世話をし続けることが、何かしら世界という大きな海につながっていることを日々に体験しつつとりくみ続けている。 色平さんの1999年05月03日付コラム「野辺山での飢餓と飽食--白頭山追想」 色平さんへメールは DZR06160@nifty.ne.jp トップへ 前のレポート |
© 1998-99 HAB Research & Brothers and/or its suppliers. All rights reserved. |